武田家・塩屋
岡山城下橋本町





「岡山の町人(片山新助著)」に岡山の豪商塩屋武田家に関する記事がいくつか見られます。

「元禄享保の頃、門閥商人ら旧勢力が衰えてくる中で財力を蓄えたのが、仁尾屋入江家(川崎町、和田屋常盤家(常盤町)、茶屋天野家(児島町)、灰屋河本家(船着町)、塩屋武田家(橋本町)、少し遅れて備中屋藤田家(丸亀町)、五明屋森家(小橋町)」

延享二年二月には、塩屋武田伝兵衛は銀百貫目を藩に融資しています。寛延三年には塩屋武田善次郎(伝兵衛後名)は新田方から扶持米を与えられ、年頭などに藩主に挨拶出来る御目見(おめみえ)の格を与えられました。
安永五年の町役人・用達に「惣年寄格 塩屋武田善次郎」「用達 塩屋武田伝七郎」とあります。
安永八年、藩が用達連中から借りていた金を、献金させ、さらに現米も献金させましたが、この時最高額を出したのが塩屋武田善次郎で、推定一万二千俵でした。この見返りに二十五人扶持を貰っています。この頃が塩屋の絶頂期だったようです。
天明年間の藩の札座全面的立て直しの際、藩の申し入れに応じた商人に惣年寄格塩屋武田善次郎、用達塩屋武田伝六郎の名が見えます。
札座立て直しのため藩に出した元高は、塩屋武田卯三郎が金五千五百両、銀七十貫目、塩屋武田伝六郎は金千両、銀二百五十五貫目となっています(寛政元年十二月)。
天保十四年二月の藩への出銀高によると、上から十二位に「塩屋 武田英介 銀五貫目」十八位に「塩屋 武田金吾 金二十両」
明治四年十一月、それまで藩から貰っていた扶持米存続の嘆願書を提出した諸氏中に、「武田薫二郎(塩屋)」「武田達二郎(塩屋)」。

傳七郎  ――傳七郎  ――傳六郎直意――傳六郎直正――+――傳七郎直義――直基   ――+――峰之介
宝暦11   寛政5    文政2    文化12   |  弘化5           |
室      室      室植木氏   室      |  室後藤氏   室氏    +――周次郎
       室             室後藤氏   |
                            +――絲子
                               齢輔妻

確認出来た最も古い年号は元文で、どうやら江戸初期からのお墓はなさそうです。大きく分けると傳七郎(傳六郎)を襲名する家と善次郎を名乗る家があることが判ります。前者は諱の通字に「直」を用いています。
「文化元年 延 備中都宇郡妹尾郷大福新田人吉田又四郎義昌女武田省意異父同母姉也」という墓碑があり、省意(直意の法名)には異父同母の延という姉があり、これは吉田又四郎義昌の娘です。北大福新田(岡山市大福)を干拓した古新田の吉田家から分家して大福庄屋を勤めていた吉田家の代々の当主は「義」を通字にしています。吉田喜平太義胤妻の生年は直意と同じですから、義昌は義胤の父ではないかと思います。直意の妻は作州植木氏、直正の後妻は讃州高松後藤法谷第四女とあります。直義妻も後藤氏とありますから同じ家でしょうか。

傳兵衛全侃――善次郎敦増――+――善次郎敦俊――善次郎敦信――+――金吾敦行
明和5    天明9    |  文政2    天保8    |  文久2
室      室      |  室難波氏   室小野氏   |  室
              |                |
              +――千賀            +――卯三郎
                 武田知明妻         |  真殿家嗣
                               |
                               +――愛之介行義
                               |  安政3
                               |
                               +――唯五郎好行
                                  明治16

善次郎を襲名している家の流れをまとめました。「岡山の町人」に寛延三年の塩屋武田善次郎(伝兵衛後名)とあるので、傳兵衛全侃が善次郎と名乗ったと考えました。
敦俊妻は「難波粂八公英女喜代」とあり、天城中島富次郎手記の記録と完全一致しました。敦信の妻は「小野氏名駒子父曰翁輔顕世以文化六年十二月十四日生干備中倉鋪」とあり、倉敷の庄屋小野七太夫顕世娘であることが判ります。
敦信の妻の墓誌にはこどもたちの記録も詳細で、「生五男二女長女次女近夭次金吾敦行嗣家次卯三郎正直嗣真殿氏次愛之助行義次本作夭次唯五郎也」とあります。碑文を整理していて気になったのは、歴代の当主がとても早く亡くなっていることです。三十代で亡くなった当主は、傳六郎直正、傳七郎直義、善次郎敦俊、善次郎敦信、金吾敦行、十人中五人ですから1/2、とても高率です。他にも行義=二十三、好行=四十二と若年で死去している人があまりにも多いです。多額の藩への貸し付けもさることながら、人がいないことも家運衰退を加速したに違いありません。


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