徳田家・石田屋
下道郡尾崎村
良右衛門友益――+――安右衛門友寿――+――鉞太郎友正 嘉永21771 | 嘉永61812 | 嘉永61837 室徳田氏 | 室森宗氏 | 室岸氏1785 | 室永原氏1822 +==良一郎友包==武夫1881――+――勲1911 | | 鳥越氏1839 麻生氏 | 平成21 +――潜蔵重美1815 | 大正3 昭和28 | 室満居氏1920 | 若林家嗣 | 室友寿娘1845 室石田氏1885| | | +――良子1922 +――登維 +――女 昭和22 井上紀雄妻 明治6
友益の前は判りませんが、共同墓地はすべて徳田氏になっていて、享保の銘が入った自然石墓碑や元徳田家という墓地があり、石田屋は本家筋ではないようです。
友益妻が徳田氏ですから、本家の娘に友益を婿養子に迎えて分家したとも考えられます。友益の後妻は井原村の岸氏です。
友寿は先妻森宗氏との間に友正をもうけますが、友正は十七才で早世しています。
後妻具野(都宇郡妹尾村永原傳四郎諧正三女)との間に生まれた常に、小田郡中川村大字本堀鳥越善兵衛次男良一郎を迎えて相続させています。
友包のあとは、従妹の娘久子が石田誠四郎に嫁いで生まれた十喜が養女となって、さらに広島県沼隈郡高須村麻生傳七郎六男武夫が養子に迎えられました。
勲の妻キヨ子は広島市尾長町山根満居冨造三女です。
五郎兵衛鎮吉==潜蔵重美 ==為英 ――+――久子1868 徳田氏1815 國府氏1842 | 石田誠四郎妻 明治4 明治31 | 室葛原氏1824 室重美長女1846+――正熊1876 ――+――重雄1907 明治45 | 明治41 室齋藤氏1884 | +――幸重1910 大正6
徳田友益の次男潜蔵は岡田藩士若林五郎兵衛鎮吉の養子となって若林姓を冒しました。岡田藩分限帳によると、潜蔵は、
天保十一年、十七俵二人扶持(徒士抜)
明治元年、二十六俵二人扶持(中小姓)
の低禄武士でした。
葛原匂当は潜蔵の一人娘信(のぶ)に琴の稽古をしています。生存年代を合わせてみると、信は匂当の伯父になるようです。信の母イシは嘉永元年に二十四才の若さで亡くなっていて岡田旧墓地に埋葬されたようです。
「昭和四十九年玄孫の正史が潜蔵の墓に合葬した」ということが曾孫の文学博士鳥越一太郎作の碑文に刻まれています。
信は賀陽郡服部村大字金井戸国府品右衛門三男為英を婿養子に迎えて跡を嗣いでいます。信の長女久子は石田誠四郎妻となり、長男正熊が跡を嗣いで、浅口郡船穂村齋藤愛四郎二女うた子を妻に迎えています。
誠四郎1863――+――十喜1885 柳井氏 | 徳田良一郎養女 昭和23 | 室若林氏1866 +==令二郎 室大橋氏1874 井上氏 昭和58 室誠四郎五女
誠四郎は高梁町広瀬の柳井重隆四男、先妻久子は若林為英長女ですから、この家は若林家の分家になるのかも知れません。
誠四郎後妻は倉敷市阿知町大橋長蔵次女律子で、この人は府中の橘高定槌に嫁いで一男二女をもうけた後に離縁復籍した人です。誠四郎も律も再縁同士となっています。
誠四郎長女十喜は徳田良一郎の跡を継ぎ、五女斐子に広島県総領町井上来三郎次男令二郎を迎えて相続させています。
石田屋の墓地の隣に徳田姓累代墓と石田家の累代墓が建てられています。
徳田姓累代墓には新七夫婦と、新七長男巌の夫婦が祀られています。年代をあわせると新七は武夫と同世代のようですが関係は不明です。
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