中島屋大橋家
窪屋郡倉敷村
先祖は近江の佐々木氏といわれ、豊臣方の侍であった種紀が、大坂落城の後、京都五条大橋の近所を経て、窪屋郡中洲村中島(倉敷市中島)に帰農し、その五世の孫平右衛門剛重が、宝永元(1704)年に窪屋郡倉敷村に移住したのに始まるそうです。その姓と屋号は先祖の足跡をあらわしているといいます。
正徳五(1715)年の倉敷村高持百姓を記した宗門帳には大橋家の先祖は見あたりません。移住してからの大橋家は、質商のかたわら、新田と塩田の開発で次第に財をなし、江戸幕府草創期からの倉敷村を牛耳ってきた勢力(古禄)に対抗する新興勢力(新禄)の頭格として村政にも参加して行きます。
世数はたいして多くはないですが、分家がとてもたくさんあります。特に娘に養子を迎えて分家させるなど、財産も相当あったことが窺えます。一般に、商家は、生き残りをかけて、分家を多く創ったようです。
佐々木信綱――氏信・・・種紀(大橋と改姓)・・・喜平次方則 ――+――源三郎方正――太九郎直方 元禄3 | 元禄7 | +――平右衛門剛重==平兵衛綱顕――+ 宝暦2 明和8 | 室宇野氏 室友野氏 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――久兵衛 | 東大橋 | +――平右衛門綱直――+――平蔵紀 ――+――平右衛門正直――+――真吉 | 文化7 | 天保4 | 明治20 | 天保7 | 室田中氏 | 室江田氏 | 室立石氏 | | | 妾浅野氏 | 妾鳥越氏 +――賀蔵 +――女 | | | 天保9 田中庄蔵妻 +――女 +==宗十郎治僖 | | 宮家軸興妻 渡辺氏 +――仁吉 | 室紀娘 | +==善五郎鼎 南大橋 | | 河相氏 +――慶 | 室剛直娘 | 分家西大橋 | 川入大橋 | | +――高 +==十蔵紹 | 大橋重正妻 田中氏 | 室木村氏 +――花 別家大橋 | 戸部禮二妻 | +――宇留 | 安政3 | +――竹 | 永富宗定妻 | +――婦由 | 宮家隆興妻 | +――満左 | 井口將矩妻 | +――友蔵直諒 ――+――康之助 | 大正11 | 明治44 | 室亀山氏 | 室間野氏 | 妾某氏 | | +――鄰吉 +――鶴 | 西大橋嗣 | 立石岐妻 | | +――平右衛門剛吉――+ +――澄 | 昭和53 | | 分家南大橋 | 室廣田氏 | | | | +――政 +――祥介 | 田中家嗣 | 分家 | | | +――伴 | | 大橋信吉妻 | | | +――睦 | | 林一美妻 | | | +――悦 | | 武藤孝太郎妻 | | | +――直吉 | | 明治34 | | | +――女 | | 明治8 | | | +――男 | | 明治23 | | | +――晨 | | 明治31 | | | +――倍 | 明治32 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――敏子 | | +――貞吉 ――** | | 室 | +――恒蔵 | | +――栄造
二代綱顕が三代綱直を連れて隠居屋敷を建てました(寛政年間)。これが本家の建物で、代表的な倉敷町家として国から重要文化財指定をうけています
三代平右衛門綱直の妻知久は、下道郡服部村田中助右衛門重久の娘で母は三宅氏です。綱直の姉妹が嫁いだのも下道郡服部村田中庄蔵ですから、同じ家、或いは同じ株家との重縁があるようです。
四代平蔵紀(竹窓)は大坂の中井竹山に入門しています。御津郡金川村江田定賢の娘を妻にして一男一女をもうけ、長男正直に跡を嗣がせます。また、渡辺氏の子治喜を養子に迎えて娘の婿養子にしています。五代平右衛門正直の妻は美作国西西条郡二宮村(津山市二宮)の立石家から、六代平右衛門直諒の妻は賀陽郡総社町(総社市)の西戎屋亀山家から迎えられています。正式には平右衛門、平蔵という通称を交代に名乗ったようです。系図を調べる場合、通称とか諱の規則性について考えることは重要です。
五代正直(竹泉)は七才で家を嗣ぎ、始め丸川松陰に、次ぎに鷦鷯春斉、仁科白谷に師事、十九才で村吏となり、文政年中に県の命令により学校(明倫館)を建ててその運営に関わっています。天保年中には讃岐直島に塩田を開き、備前国児島湾の干拓事業にも参加しています。天保、文久の凶作の年には、それまで蓄えていた食料を供出して飢えた民衆に施し、安政年中に幕府が海防費を募った時にこれに応じ、明治元年に備前藩が朝廷軍を出した時に資金援助しています。これらの功労によって、幕府から永代の苗字帯刀許可と俸禄支給、宅地租税免除、朝廷から銀杯を与えられています。明治五年に中風を煩って職を辞しますが、医書を読んで養生につとめて其後十数年の寿を保ちました。武術、筆、算術、方位、茶道、和歌、華道、猿楽、横笛、経史易、、書画、築山植木と多趣味、多芸の人でもありました。妻源子は立石祐右衛門久達の娘です。
宗十郎治僖は渡辺氏で、分家して南大橋と称しました。妻律勢は四代平蔵紀娘ですが、律勢は二十九才で早世、その後三月で宗十郎は離縁となり、祭祀は本家に引き継がれます。このあと五郎整が祭祀を引き継いだようです。
六代直諒(竹林)の墓誌には冒頭で紹介した先祖記が刻まれています。
現在の倉敷市中島にも大橋姓が多いのですが、倉敷の大橋家はこれらの家とは無関係と云われています。しかし、京阪神地方からどういう理由で備中の、しかも、同姓の多い中島に移住したのでしょうか。古くからの親族縁故が住む土地、故郷を目指して退却したのだという方が自然に思います。
直諒は父の竹泉の隠居後家政を任されました。明治初年に倉敷小田県の役人となり、諸会社銀行倉庫などを経営、紡績、鉄道創設、道路を開き、河川堤防工事にも関与しています。その功労によって岡山県知事から褒賞を受けています。幼時より剣術に優れ十六才で倉敷代官所で行われた試合で五十人を破っています。大橋徳蔵、佐々木諸助に学び、後に三島中洲に入門して学問をしています。晩年は書画骨董を愛し、和歌、謡曲、浄瑠璃などを楽しんでいます。その妻佐和は亀山九一郎純綱の次女です。
直諒のきょうだい、政は服部村田中氏の養女となり、竹は播磨國揖保郡揖保川町新在家の永富右衛門宗定の妻、満左は揖西郡山田村井口將矩の妻となっています。
直諒の長男康之助は東京第一高等学校へ入学、後に米国の大学で文学士となり帰朝、京都郵便局通信員として勤務しますが三十六才という若さで亡くなり、弟平右衛門剛吉が跡を継いでいます。妻は生坂村間野兵三郎恒明長女君子ですが、康之助死後離縁復籍しています。君子はその後実母と岡山で暮らしますが、実母が亡くなり戦災で焼け出されて後はまた倉敷に戻り、東大橋の門長屋に居候していたそうです。その頃、生坂には度々訪れ、祖母ともよく歓談していたと聞いています。生坂では「金華堂のきみさん」と呼ばれていました。金華堂は祖父與平の店の屋号です。晩年になって、岡山市の国富友治郎の後妻となり、昭和三十三年に国富家で死去しています(享年七十五)。
七代平右衛門剛吉の妻千代子は多可郡比延庄村(兵庫県西脇市)の廣田傳左衛門娘です。睦は備後國鞆町の林半助一美の妻、この家は鞆鉄道を敷設した資産家です。悦は御津郡金川村の武藤孝太郎妻です。
南大橋
五郎 ――+――賢之甫 ――+――博 緒方氏 | | 大正14 | 室有元氏 +――篤二 室正直娘 | +――信吉 ――+――松子 | 昭和35 | 有元氏妻後離別 | 室直諒長女 | | +――孝彦 | | | +――淳子 | +――愛 明治31
五郎整は伯耆國日野郡黒坂村緒方四郎兵衛政房の四男で、備中成羽藩儒信原勝陰について漢学を修め、後に慶應義塾に学んでいます。正直の季女澄の婿となり、南大橋として分家を立てています。緒方家は備後知和城主と言われます。
賢之甫の妻カズヨは作州大原の有元氏、信吉の妻伴は本家直諒の長女です。
直諒の妹慶に播磨国佐用郡上月村の大谷家から迎えられた婿養子敬之助は、分家して西大橋と称しますが、のちに倉敷町から出奔し、立石孫一郎と名乗り、長州の奇兵隊を率いて備中浅尾藩邸を焼き討ちしています(浅尾騒動)。
西大橋
敬之助 ――+――千之甫 ==隣吉 大谷氏 | 大正9 大橋氏 慶応2 | 室藤田氏 大正11 室正直娘 | 室大川氏 +――正吉 | 大谷家嗣 | +――勢以 大橋又四郎妻
隣吉は本家直諒の次男で、帝国大学を卒業して入隊し、第十師団第二十連隊歩兵少尉として三四才で死去しています。その妻千恵子は大川英太郎の娘です。
西大橋家の建物は現在都窪郡早島町の森田氏の居宅として早島に移築されて遺っています。
別家大橋
十蔵紹 ==十蔵忠信――+==又四郎 ――+――孝之助 天保9 田中氏 | 室氏 | 田中氏 明治4 | 室大橋氏 +――矩 室井上氏 室大橋氏 | | 室木村氏 +――豊 +――矗 平川保妻 | +――せつよ 大津寄義三妻
綱顕娘が田中庄蔵に嫁いで生まれた十蔵紹を養子に迎えて分家させたものです。
二代勝之丞忠信は、紹の兄の子で、その妻辰は東大橋四代重尚の娘です。
三代又四郎は上房郡中津井村の室田夫曹直温の次男、その妻勢以は西大橋敬之助の長女です。
東大橋
久兵衛 ――金平重朝==源助謙 ――+――金平重尚――+――源助重禮 天明8 文化7 片山氏 | 嘉永6 | 安政4 室浅野氏 室秋庭氏 弘化2 | 室片山氏 | 室重朝娘 | +――良介重正 ――+==俊太郎 ==高之 ――+ 室菅波氏 +――徳蔵 | 慶應1 | 田邉氏 宮家氏 | 室片山氏 | 室大橋氏 | 明治20 昭和28 | 北大橋 | 室大森氏 | 室重正娘 室俊太郎娘 | | | 室難波氏 | +――女 | | | 大橋勝之丞妻 +――秀太郎 | | 明治18 | +――三津 室土屋氏 | 片山秀尚妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――雅子 | 高橋仰之妻 | +――幹一 ――+――女 | 平成1 | 友田家へ | 室山本氏 | | +――女 | | 宮崎家へ | | | +――** | | 室井上氏 | | | +――女 | 亀山家へ | +――励二 | 山邑家嗣 | +――省三 | 河崎家嗣 | +――拍 | 荻野武夫妻 | +――幸子 | 藤田勉二妻 | +――好子 | 黒板駿策妻 | +――骼l郎 平成22 室石井氏
本家二代の綱顕長男久兵衛が分家したものです。二代金平重朝の妻戸羽は浅原村秋庭善太夫盛吉の五女で母は友野氏です。綱顕の妻が岡谷の古庄屋久太兵衛盛光の娘ですから、秋庭盛吉の妻も同じ友野家だろうと思います。重朝夫婦には二女がありましたが、次女は十六才で亡くなっています。重朝の跡は、長女津代に小田郡三成村片山家から源助謙(叔遜)を婿養子に迎えて相続させています。津代は文政八年に四十才で亡くなり、備後國神辺村菅波良平次女以登が後妻で入っています。
叔遜と津代の間には二男子があり、長男金平重尚が相続しますが、生来病弱で弟徳蔵に家政を助けてもらいますが、四十四才で亡くなります。重尚の妻登和は三成村片山秀成娘です。夫婦の間には四男一女がありましたが、長子と次男は幼くして亡くなり、三男源助重禮が嗣ぎますが、これも二十一才で早世、その跡を四男良介重正が相続します。しかし、重正もまた二十六才の若さで亡くなりました。重正の妻高は、本家正直の娘ですが安政五年に十九才で亡くなり、上道郡中井村大森増次郎保定次女熊が後妻に迎えられました。重正と熊の間に一男一女があり、長男秀太郎が跡継となりますが(室備後手城村土屋氏)、二十一才で早世して、長女仲に迎えた俊太郎が跡を嗣ぐことになりました。
俊太郎は賀陽郡美袋村の大庄屋、本陣役を勤めた田邉壽太郎義質の四男です。仲との間に一女寿(ひさ)をもうけますが、仲は明治十二年に十七才で亡くなり、次いで窪屋郡平田村難波伝左衛門直盛娘多久が入りますが、この人も明治十九年に早世、俊太郎もまた明治二十年に三十二才で亡くなります。
寿は成長の後、尊流院宮家隆興の次男高之を婿養子に迎えて相続しています。
何代にも亘って当主が早世し続けた家ですが、高之は八十七才、寿も昭和五十一年に九十九才の天寿を全うしています。
私は幼い頃、祖母から寿さんのことをたびたび聞いていました。小学校へあがる前くらいでしょうか、祖母に連れられて東大橋に行ったことをうっすら覚えています。一番近くに住む従姉ということで、ずいぶん親しく行き来していたようです。
「大橋のおばあさんのように元気で百歳まで生きる」
というのが祖母の口癖でしたが、寿さんの死後八年を経て九十六歳で亡くなりました。
高之と寿の長女雅子は広島県竹原市の高橋仰之妻、長男男幹一は久我山大学学長から、その母体になる岩崎通信機に移り、その経営建て直しを成功させ、同社の社長、会長、電気通信学会長などを歴任しています。その妻よしは姫路市平野町山本佐一郎の長女です。
励二は灘五郷の酒造業者の山邑太左衛門次女篤子の婿養子(桜正宗、神戸市東灘区魚崎町)となっています。祖母の文箱に「鹿島守之助(選挙)事務所、山邑励二」という名刺が遺っています。
省三は東洋紡績の創業家河崎家へ入っています。
四男*(木扁に貞 てい)四郎の妻幸子は小田郡矢掛町の石井保三郎次女です。
東大橋家は分家であるにもかかわらず、代数は本家と同じ、或いは少し多いくらいです。兄が早世した後に家督相続した弟を兄の準養子として一代ずつだぶって数えていったためです。家系を調査するときに、このようなことも頭に入れておかないといけません。
北大橋
徳蔵 ――長蔵惟亮――+――淳蔵 ――+――女 明治19 大正8 | 室平田氏 | 江口家へ 室片山氏 室大森氏 | | 室笠井氏 +――男 +――清蔵 | | +――フジ +――女 | 仲田定治郎妻 | 大塚家嫁 | | | +――女 | +――里津 ――+――サイ 橘高定槌妻 | 長蔵養女となり渡邉織之助妻 後離縁 | +――圭二 | +――八重 長蔵養女となり井上武夫妻
東大橋三代源助謙の第二子(母大橋氏)徳蔵徳が分家したのに始まります。徳蔵は兄金平重尚が多病のため東大橋家政を補佐していました。妻嘉濃は小田郡中村の片山仲右衛門次女で、夫婦の間に一男長蔵がありました。
長蔵惟亮の妻登茂は上道郡中井村大森増次郎の三女で母は岡山石関町の平井清作琢の娘です。登茂は二男二女を生みますが三十三才の若さで亡くなります。後妻の品代は上道郡福泊村笠井勘兵衛の次女ですが、子が無くて離縁、後に津高郡田地子村の行森小平太正為の後妻となっています。
淳蔵の妻里は伯耆國平田氏、里津は小町美人といわれたほどのきれいな人でしたが、橘高定槌に嫁いで後に離縁となっています。その娘サイと八重は祖父長蔵の養女となり、サイは下道郡久代村(総社市)の渡邉織之助へ、八重は倉敷市天城の井上家へそれぞれ嫁いでいます。
淳蔵の跡は清蔵が嗣ぎ、易(やす)は福島村の江口博へ、すえは後月郡の大塚氏へ嫁いでいます。
川入大橋
善三郎鼎――+――利世 河相氏 | 宮家元興妻 安政2 | 室大橋氏 +――善五郎盛輝――+――菊 文久2 | 団藤重信妻 室立石氏 | +――善三郎震 ――+――岩代 明治32 | 物部家嫁 室堀尾氏 | 室内藤氏 +――愛三郎近輝==某 明治12 物部氏 室
剛直次女槌子に備後國安那郡西中條村河相喜多治國香男(母は同郡百谷村足利清助娘)善三郎鼎が婿養子となって分家したのが始まりです。川入村に分産して住み、晩年は門を閉ざして人と会う事をせず奇人と云われました。
善五郎盛輝の妻伊佐子は津山二宮村立石祐右衛門久達の娘で、三男一女をもうけます。
菊は小田郡小林村の団藤譲太郎の妻となり二男子に恵まれますが三十一才の若さで亡くなっています。
善三郎震は堀尾氏の娘を妻にしますが子が出来なかったために離縁し、連島大江内藤貞吉娘を後妻に迎えています。この後妻は三人の子を生んでいますが、後に離縁して浅口郡爪崎村(倉敷市玉島)の浅野虎次郎へ再縁しています。
岩野は川上郡手荘村の物部家へ嫁いでいます。
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