土居家
苫南郡下田邑村
瀬戸内海の河野水軍後裔です。かつて伊予国に得能と土居の二家があり、土居氏の始祖通成、それから通胤、通増と続きました。
通増と得能通言は元弘の乱で活躍しました。通増の弟に通世があり、その八世の孫下野守方玄は伊予国小田本川城主でした。
方玄は土佐国笹峠で長曽我部元親と戦って討死、この時方玄の三男四郎治郎康方(母は大野紀伊守利直の娘)はまだ幼く、成長してから芸州毛利家に仕え、美作神楽尾城主大蔵甚兵衛直清の援軍として美作に送られました。即ち、直清の家臣千場三郎左衛門が謀反して逃走したので、直清は康方に命じて追撃させ、下田邑迫戸で討ち取りました。康方文禄元年六月に亡くなり、嫡男阪之助方正は伊予久万山から父を慕って美作に来て家を継ぎました。方正の長男正盛は始めて森家の大庄屋を勤めています、次男正義は神原に別家して住みますが、その跡は断絶しています。
屋号正守
四郎次郎康方――阪之助方正――+――六郎右衛門正盛――+――六郎右衛門正重――善兵衛正久――與治兵衛仲正――+ 文禄1 寛永11 | 承應4 | 安永5 | | 室 | 室 室 室 | | | | +――正義 +――七郎右衛門正勝 | 分家神原 | 分家 | | | +――四郎左衛門 | | 分家高山村 | | | +――男 | | 他家嗣 | | | +――正季 | 分家采 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――源右衛門正直――六郎右衛門正定――六郎右衛門通房――+――勝治通理 寛政4 文化14 天保14 | 天保9 室 室 室 | +――茂太郎通紀 | 弘化2 | 室 | +――東一郎通綱――+――女 明治30 | 甲田仙平妻 室 | +――東一郎通綱――重五郎 ――+ 明治30 明治23 | 室 室 | 室杉氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――通孝 ――通純 ==・ 昭和27 昭和60 原氏 室 室岸本氏
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屋号森
正盛の子七郎右衛門の後は大庄屋職を継承、明治にいたって貴族院議員として活躍しています。その財力は県南の大原家と並んで挙げられるほどになりました。
七郎右衛門正勝――+――七郎兵衛正富――+――七郎兵衛正栄――七郎右衛門弼正――七郎右衛門正甫――与三兵衛正寿――+ 万治2 | 元禄11 | 寛保3 寛保3 天明6 文政5 | 室 | 室田口氏 | 室横井氏 室佐々木氏 室 室 | | | | +――正雄 +――武雅 | | 分家川辺村 分家上田邑 | | | +――正玄 | | 分家田辺村 | | | +――男 | 某家嗣 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――督左衛門通顕――+――男 | 嘉永3 | 廃嫡 | 室 | | +――男 +==通賢 | 夭死 土居氏 | 分家新家 +――藤七通義――+――男 | 弘化2 | 早世 | 室 | | +――貞右衛門通政――+==通信 ――+――通憲 +――男 | 明治33 | 明治36 | 昭和18 夭死 | 室 | 室 | 室江見氏 | 室 | | | | +――梅代 | | 森本藤吉妻 | | | +――他二女 | | | +――勢以 | | 植月重祐妻 | | +――通實 +――通博 ――+――英治 | 分家新宅 昭和14 | 昭和24 | 室 | 室堀氏 +――通信 | 明治36 +――富子 室 | 久我信良妻 | +――文治 嘉納家嗣
正勝に四男一女があり、次男正雄は川邊村に、三男正玄は田邊村に住んで正勝の跡を継いだ正富と共に森家の大庄屋を勤めています。それぞれの子孫は明治になって皆士族に列しています。
通政には始め四女のみで男子が無かったので、末弟通信を跡継ぎにしました、その後通博が生まれたので通信の嗣子としています。
通政は長じて家督を継ぎ、嘉永六年大庄屋頭取となり、元治年の長州征討にも出征しています。廃藩置県後は北条県庁に勤務しました。
通信(源治郎)も、大庄屋、北条県の戸長、区長、西北条郡・東南条郡書記などを歴任した後、田邑村会議員、県会議員を勤めました。明治三十年、土居銀行を設立、明治二十七年には森本藤吉、苅田善治郎らと津山製糸合資会社を設立しています。県南の大原家と同じような経済展開を行っています。
森本藤吉は落合の飯田秋継長男で、立石岐の仲介で通憲の妹梅代と結婚しています。通憲の妻シュンと岐の養子恭は共に三日月江見氏で兄妹になります。藤吉の子が慶三です。
通博(邦治郎)は義父通信(実叔父)の設立した土居銀行に、勝間田・久世・武藤・備前加茂などの銀行を合併させて、作備銀行を設立。さらに、津山銀行を加えて山陽銀行を設立、その後も阿哲、足守、鞆、丸亀、倉敷大橋など県内外の銀行を合併吸収しています。大原孫三郎の経営する第一合同銀行と競争しましたが、昭和の金融恐慌と経済不況で、第一合同銀行との合併を決意して昭和五年に中国銀行創立に関わりました。明治三十九年には貴族院多額納税者議員に当選しています。
通憲は明治四十一年、津山電気の創立に関わり、大正年には倉敷電灯(社長大原孫三郎)と合併しています。大正十一年のの衆議院議員補欠選挙に当選、国政に参画しています。
英治弟文治は菊正宗の嘉納家を嗣ぎ(九代)治郎右衛門を襲名しています(正豊)。倉敷市藤戸町藤戸の星島義兵衛次女が嘉納正治妻ですから、宏子は文治の子毅六(正治)妻となるようです。
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