福田新田と篠井家
児島郡福田新田の干拓を最終的に完成させたのは備前国児島郡味野村の大庄屋格野崎武左衛門ですが、最初に藩の許可を得て干拓に着手したのは同郡柳田村の大庄屋篠井汲五平でした。汲五平は、松山川上流住民からの反対運動にあって思うように工事を進めることが出来ず、途中から資金調達の目途もなくなり、武左衛門に引き継がれることになりました。現在でも、公共の大工事が行われる時には、いろいろな反対運動が起きて実際の工費以外に多額の補償金が必要になるようですが、この様なかけひきの原型は既に幕政時代から出来上がっていたようです。

 篠井は「ささい」と読み、笹井、佐々井と書く同族もあります。汲五平の祖父の祖父市右衛門幸孝は享保の頃に児島郡下村の海上を埋め立てて新田を完成させています。この新田は市右衛門新田といわれ、現在の児島下の町九丁目付近になります。篠井家は市右衛門の祖父の代から柳田村及び近郷十村の大庄屋を勤めていたという古記録がありますが、とくべつ富豪と云われるような家ではなかったようです。しかし、この下村の新田干拓の成功によって、市右衛門は郡中第一の多額納税者となり、市右衛門の曾孫、即ち汲五平の父作左衛門富長は備前藩の大庄屋、下役人を勤め、苗字帯刀を許可されています。従って、汲五平の代には、篠井家は新田開発という大土木事業にも取り組めるだけの技術、資金、更に政治力をもった現代のゼネコンのような組織になっていたと思います。

 しかし、汲五平が新田干拓に失敗した後の篠井家の家運は急速に衰え、汲五平の長男嘉太郎は新田の南畝名主に任じられていますが、その後の子孫の名も消息も全く判りません。汲五平他の歴代の墓碑は児島吉塔寺北の篠山にありますが、地元の縁故の人をはじめとする有志の人の手で管理されています。

 倉敷市史には柳田篠井家の家系がかなり詳しく紹介されています。これは汲五平の家の株家と永山家が親戚関係にあったからのようですが、汲五平の祖父市右衛門幸秀の墓碑にはその祖父の祖父作太夫幸富の代からの先祖の名と業績が漢文で詳細に記してありますから、永山先生はこれを元にして篠井家系図の中心部分を作成され、汲五平の後は絶家と書かれていますが、篠井家と縁戚関係にあった児島宇野津の梶田家(幕末に川井と改姓)のご子孫の話では、汲五平の直系子孫は終戦後まで児島に居られたそうです。

 現在も、吉塔寺の近くに汲五平の邸宅跡といわれる場所があり、近くには汲五平の同族という家が何軒かあります。その内の一軒のご主人から次のような興味深い話をお聞きしています。

「汲五平は一千町歩の福田新田を九割九分完成させたが、残り一分の完成を前に、借金をしていた野崎家から返済の催促があり、とうとう返済期限を延ばしてもらえずに破産してしまった。その昔、野崎家から篠井家に嫁いだ娘が、篠井家の主人が若死したために実家に戻ったが、その後も篠井家は毎年決まった米を野崎家に届けさせていた。そういう関係の家でありながら、福田新田の干拓の時には借金の返済を待ってくれなかったのはけしからぬことだった。
 備前藩主の茶会に招かれた汲五平がたいへん立派な着物を着ていたのが藩主の目にとまり、藩主は藩札で湯を沸かして、その燃え残った藩札を汲五平に下された。この時に汲五平は藩札を着物の袖で受けたので着物の袖はぼろぼろに焼けただれてしまったが、その後、汲五平は藩主のやり方をまねて藩札で湯を沸かして茶を楽しむようになった」

 新開地の場合、検地の方法によって多少の面積の増減はありますが、福田新田は一千町歩もなく、普通は六百五十町歩といわれます。また、野崎(もとの姓は昆陽野)から篠井に嫁いだ人がいたのかどうかは不明ですが、両家が縁続きになることは確かなようです。しかし、実際に野崎家が篠井家の事業の邪魔をしたという証拠はありません。両家と縁続きになる児島塩生の能勢家(近世の姓は原)のご当主から、自分の曾祖父は剣の達人だったので、福田新田干拓の邪魔をする者を威嚇しに出かけていたとお聞きしたことがありますが、もともと当時の縁組みは多分に政略的でしたから、協力することはあっても邪魔をするということはなかったのではないかと思います。

 篠井家は下村の新田干拓の成功とその後の当主の堅実さにより蓄財が進み、備前領内でも有数の富豪となったようです。しかし、汲五平の代になるとやや奢侈になり、台所事情も悪くなっていったのではないかと思います。先祖が当てた一攫千金の夢をもう一度みたいと思うようになった汲五平に、藩中で経済力、政治力を蓄えすぎた篠井家に釘を刺そうと目論む反篠井の一統が火中の栗を拾わせようとしたのが、福田新田の干拓であったのではないかとも思われます。

 汲五平の祖父市右衛門幸秀の弟十次郎幸英が下村に分産した家の子孫やその血族の方々も、野崎家のことを良くは言われません。篠井一族にとっては、汲五平はゼネコン篠井建設KKの会長で、自社の倒産の陰で、急速に力を蓄えて成長していった野崎建設KKに対して快く思わなかったのは当然かも知れませんが、それから百数十年経った今まで関係者に語り伝えられているのには驚きます。汲五平の墓には「篠井汲五平源貞、篠井富永嫡子墾福田新田、男嘉太郎継家」とだけ刻まれています。父祖の墓碑に生前業績がいっぱい刻まれているのに比べ、「墾福田新田」はあまりに簡潔すぎますが、そこに本人と一族の無念の思いが集約されているように感じられます。汲五平は、広大な塩田跡地と大きな蔵が立ち並ぶ大邸宅を残した武左衛門とは対称的な運命をたどった人です。

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