伊賀家
和気郡友延村



この家は藤原氏の流れで、鎌倉時代に備前國内に地頭となって来住しています。戦国時代末には宇喜多家とも姻戚関係を結び虎倉城主として近隣に勢力を示していました。

藤原   佐藤                     伊賀
 ―――公光――左衛門公季――公助――文郷――光郷――朝光――+――太郎左衛門光季
                            建保3 |
                                +――二郎左衛門光宗――式部左衛門宗綱――+
                                   正嘉1               |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――三郎左衛門光泰――弥左衛門頼泰――四郎左衛門光長――四郎左衛門兼長――四郎左衛門頼兼――左衛門光高――+
                    建武3                               |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――左衛門行季――行隆

小橋和登の子正篤は伊賀氏を称して分家、享和1年に藩から31俵2人扶持をもらって御郡方支配の下役人になっています。邑久郡、津高郡の用水文書にもその名がみられるそうです(撮要録)。
その妻「のえ」は歌人として有名です。

恒兵衛正篤――+――安助正長――恒助正興――好八郎正継――大三郎正末――大二正大
文政5    |  文政8   天保9          室片岡氏   室
室万波氏   |        室大饗氏
       |
       +――女 倉地親敬妻

正興は若くして亡くなり、その妻子は子供らを連れ、実家を頼って同郡友延村(備前市友延)に移住しました。


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