真野家
賀陽郡真金村





岡山市立中央図書館で手にした「真野家の遠祖(紫安弥寿子と生家真野家 姉妹篇)大阪 紫安新九郎、1943」に、渡邉家の集合位牌に収録された仏様と一致する人名(及び戒名)を見つけました。
これが真野家と重縁であった佐藤家の仏様で、佐藤家から渡邉家に入った人があるので集合位牌にも収録されたことがわかりました。

「真野家の遠祖」によれば、同家の菩提寺は普賢院ですが、もとは鯉山小学校の所にあった道勝寺だそうです。
両寺の過去帳がどれほど正確に書き写されているのか判りませんが、普賢院過去帳には、真野家の先祖として、
○ 宝暦七年○○妙圓大姉
○ 天明五年○○院○○妙高大姉、仙也美郷の妻、江州彦根侯臣原田氏娘
○ 文政二年○○院○○仲善居士、仙也美郷
などが記されているそうです。

この家はもともと惣爪の旧山陽道沿いにあって糀屋と呼ばれていたそうです。その後、酒造りに良い水が得られるということで建てられた宮内吉野口の工場へ移住することになったそうです。「真野家の遠祖」には、惣爪に糀屋の井戸というものがあるとか、惣爪鎮守八幡宮玉垣は真野家の寄進であるとか記されていますが、現在廻ってみてもそれらしいものや、証拠は遺っていません。家紋は「丸に右巻き三巴」です。

快賢 ――義吽  ――弥次郎久胤――+――彌左衛門守貞――+――太左衛門守成
宝永8  明和4   天明6    |  天保7     |  文化11
室    室佐藤氏  室梶浦氏   |  室林氏     |  室河原氏
           室      |          |
                  +――多喜      +――良蔵守業
                     佐藤度宗妻   |  文化10
                             |
                             +==宇右衛門守正==順蔵守約――宇右衛門守愚――+
                                冨山氏     佐藤氏   明治15    |
                                慶應3     慶應2   室木谷氏    |
                                室守貞娘    室守正娘          |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――竹太郎  ――+――彌壽子
|  昭和3    |  紫安新九郎妻
|  室小野氏   |
|         +――孚
+――彦次郎守道  |  大正5
   日下家嗣   |
          +――*   (*=換の右が火という字)
          |  昭和31
          |  室
          |
          +――忠巳
             昭和45
             室今井氏

下の墓の方に古い時代の墓碑が並んでいますが、はじめこれに気づきませんでした。
宝永8、明和4に亡くなった当主は墓碑に俗名がありませんので、戒名で記しました。千日山は吉備津宮の社家を勤めた家の墓碑もたくさんある所ですが、そういう家の墓も元禄、宝永の頃からのものしか確認できません。従って、真野家はこの近郷ではかなりな旧家に入ると思われます。



初代が誰か、何処からやってきたのか判りませんが、上の系図の二代目妻は墓碑に佐藤氏とのみ記されています。この情報をもとに惣爪佐藤家の各代と生存年代を照合すると渡邉是氏妻とほぼ同年代になります。
真野家一代飛んで佐藤家との縁がまた結ばれていることになり、渡邉家も同様に一代飛んだ佐藤市左衛門度宗から親族の集合位牌にお祀りをしていることになります。もしかすると佐藤市左衛門度宗は渡邉家から佐藤家に入った、即ち、佐藤家は二つの親戚から養子と養女を迎えて家をつないだのではないかとも考えられます。

上記の妙圓大姉は久胤妻梶浦氏であることが墓碑から判りました。

彌左衛門守貞は字子幹、号は竹堂、国書漢籍に通じ、漢詩、和歌に優れ、子弟を集めて詩文や学問を教授しました。頼山陽、藤井高尚と親交があったようです。二男四女がありましたが幼くして亡くなったり、自分より早く亡くなりました。岡山県歴史人物事典(桑田康信氏執筆分)には「子がなく従弟守継を後継ぎとした」とありますが、「真野家の遠祖」では、娘に冨山氏から養子を迎えて跡を継がせたとだけ書いてあります。
竹堂妻可兒は、賀陽郡西阿曽村(岡山市)の林氏で、この九世祖重真という人が毛利氏に属して冠山城を守っていたと碑文に紹介されています。

守正の墓碑には戒名と歿年月日しか彫られていませんが、その妻の墓碑から竹堂娘琴の婿養子であることが判ります。この人は占見新田冨山家の過去帳に「冨山定兵衛四男賀陽郡宮内村真野宇右衛門」と記されています。守正夫婦には女子が一人だけでしたので、これに佐藤氏の子守約を婿に迎えています。

守約は字希曾、号は梅坪、通称順蔵、大伯父で先々代になる竹堂に習い、詩人、歌人をよくし、茶道、華道にも精通していました。
守愚の妻は吉備郡木谷氏とだけ記されていますが、占見新田冨山家の過去帳に「冨山定兵衛次男二万村木谷氏へ養子岡田藩士同所居住木谷八郎右衛門」とあるので、この辺りにも親戚関係のループが隠れていそうです。

竹太郎は真金町長を勤めています。その妻多紀は備後芦品郡福田村小野氏となっています。
紫安新九郎は戦前の立憲民政党の総務を務めた政治家であったようです。その妻彌寿子が竹太郎の娘で、昭和15年に57才で亡くなっています(大悲院殿真本香寿大姉)。「真野家の遠祖」という本は、自分の政治活動を陰で支えてくれた妻を偲んで、紫安氏が妻の実家を自ら調査した足跡をまとめられたものです。

なお、墓地には、○○浄光信士天保三年九月廿八日源之助守徳という墓があり、その墓碑には隣に妻の戒名が入る分空けてあります。藤井高尚傳に、藤井高尚等と共に署名捺印した文書に、真野宇右衛門守徳とあり、高尚と同時期に活躍した人とすれば、竹堂の兄弟になるのかも知れません。

さて、この家の歴史を江戸時代初期までさかのぼるのはお墓だけでは苦しいのですが、「真野家の遠祖」には江州の出身と書かれています。真野は間野と同一と考えられ、生坂間野家の先祖も江州から出たことになっています。生坂間野家の株家が矢部(倉敷市)という、惣爪の西隣村に何軒かあることをM氏にお聞きして調べに行ったことがあります。矢部と生坂の両間野家がどのような関係になるのか不明ですが、矢部の間野氏の歴史もけっこう古いようです。矢部のさらに西は新庄(岡山市)、ここにも間野という有名な庄屋の家があります。そこで新庄の間野家を調べてみることにしました。


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