木曽義仲(朝日将軍)


義仲は頼朝の従弟になります。

義賢が義平(悪源太)に殺された時(久寿2=1155年)に、義仲1才とも3才とも云われてはっきりしません。その後、齋藤別当實盛らの情によって、木曽山中に匿われて成長します。

治承4(1180)年、以仁王の令旨によって兵を起こし、寿永2(1183)年、砺波山で平維盛軍を敗り、都に入ります。そこで、後白河法皇から平家追討の院宣を受けます。逃げる平家を追わせて兵を差し向けますが、水島途の戦いで平家軍に敗れたという報を受けて、自ら兵を率いて備中国まで攻め入ります。この時に倶利伽藍峠の戦で生け捕った平家の將妹尾太郎兼康を道案内に立てますが、兼康の裏切りに余計な時間を取り、また、叔父行家が裏切ったと聞かされ、急いで京都に引き返します。ところが、後白河法皇は密かに頼朝に義仲追討命令を出していましたので、寿永3(1184)年、義仲は頼朝が差し向けた範頼、義経軍と戦って敗れ、近江國粟津ヶ原で戦死しました。

義仲寺はこの粟津ヶ原の義仲の墓地に建てられ、後に荒廃しましたが、戦国時代になって近江の国主佐々木氏によって再建されました。なお、俳人の松尾芭蕉(元禄7=1694年歿)はこの地を愛し、遺言により芭蕉翁の墓はこの寺境内に建てられています。

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