荒木家
下道郡尾崎村
織田信長の家来だった荒木村重の子孫と云われます。村重は信長を裏切って攻められ、備後尾道に落ち延びた後、豊臣政権になって復権しているようですが、その弟や妻子の詳しいことはよく判っていませんから、村重の子孫というのを否定する材料はありません。
村重13世の孫高道が尾崎に住んだとありますが、13世というと数百年を隔てることになりますから、3世孫の間違いではないかと思います。なお、村重の子孫と称する荒木氏は同じ備中国内にもあり(浅口郡佐方村荒木氏)、備後千田村の荒木氏なども同じではないかと思います。
尾崎は山陽道の宿場町川辺のすぐ西隣の村です。
天明7年5月9日、薩摩藩主島津氏が参勤交代の帰途、尾崎村を通りました。この行列の案内役をしていた2人の侍が尾崎村畑岡の街道沿いの茶店で大酒を飲んで亭主にからみ、困った亭主が庄屋文十郎に泣きついて行きました。文十郎が走っていって主人に代わって謝りましたが、侍は頑として聞かないばかりか益々怒って、1人が太刀を抜いて斬りかかってきたので、文十郎は太刀を奪って一刀のもとに斬り殺して太刀を持ったまま引き上げました。同伴の侍はいっぺんに酔いが醒め、斬り殺された侍の小刀を引き抜いて矢掛宿まで逃げて行き、そこで切腹して果てました。事件現場を所轄する岡田藩は大騒ぎです。相手が大藩の薩摩ということもあってか、文十郎の正当防衛とは認めずに直ちに斬殺刑に処して薩摩藩に報告しました。ところが、薩摩藩からは、「うちにはそんな家臣はいないから、そっちで適当に処理してくれ」という返事で、文十郎の死は無駄になりました。
それ以後、薩摩の行列は注意して尾崎を通り過ぎたということです。
畑岡に薩摩の蔓がのび過ぎてつぢを止めたる荒木文十
この文十郎が下記の系図にある高政のことです。文十郎は剣道を伯父団蔵に習って剣の達人であったそうです。文十郎の父喜三郎の墓碑には「同苗弥兵衛男」とあり、一家の墓地では、○○院蓮證(享保6歿)、○○院妙證(安永5)という墓碑が最も古いようですから、喜三郎は株家から迎えられた養子だと思います。文十郎一家の墓地の西に同姓の墓地があり、今はお祀りをされていないようですが、おそらくこれが本家の墓地で、ここに弥兵衛、団蔵の墓碑があると思います。
文十郎は31歳という若さで亡くなったわけですが、その父喜三郎は文政4年に98歳という高齢で亡くなっています。将来を期待していた息子を事故で失ってからは、そうとうな苦労があったと思います。妻大熊氏(連島)も文政3年に亡くなっていて、享年は不明ですが、やはり80歳を越える長寿の人だったのだろうと思います。
・ ==喜三郎 ――文十郎高政――+――喜三郎高之――+――孫兵衛村澄 享保10 荒木氏 天明7 | 天保7 | 綾野家嗣 文政4 室萩原氏 | 室片岡氏 | 安政5 室大熊氏 | | +――左兵衛高静 +――幾三郎高美――+――喜一郎高克――貫一郎高敏――脩一郎高徳 分家 | 明治6 | 明治6 明治28 大正2 | 室中嶋氏 | 室白神氏 室土師氏 | | +――官蔵 +――貞 太田家嗣 荒木高敬妻
孫兵衛村澄は岡田藩綾野宗次の養子となって江戸藩邸で死去(46歳)とあります。
分家の系図は下記のようになりますが、高敬が書いた高政の顕彰碑文には姪孫とありますので、高静は高之の兄弟ではないかと思います。いまでは姪はきょうだいの女子をいうのが普通ですが、甥の意味に使われた記述を多くみます。高之は文十郎の次男ですから、兄の高静が分家したのかも知れません。
左兵衛高静――駒平高宏――+――忠一郎高敬――+――蒼太郎高博――+――直躬 天保4 慶應1 | 大正4 | 昭和7 | 昭和37 室原田氏 | 室荒木氏 | 室笹井氏 | 室岩田氏 | | | +――琴乃 +――時二郎 +――有三 謙益妻 | 阪本家嗣 | 室岡崎氏 | | +――勉三郎 +――威 | 室柿内氏 | +――克子 永山右三郎妻
高敬は岡山県官吏として赤磐・邑久・浅口郡などの郡長を勤めています。蒼太郎は岡山医大の精神医学・神経病学の教授を勤め、退官後は東京で漢学研究に専念しています。直躬は父と同じ東京帝大を出て、松沢病院長、東大精神科講師を経て、千葉医大精神科教授に就任、戦後は、千葉大学医学部長、学長を勤めています。直躬には子がなかったので、弟有三を準養子としています。
弥兵衛 ――良平 ==謙益 ――松江 寛政12 天保9 明治34 室 室荒木氏 明治33 室高宏女 室朝比奈氏 室川田氏
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