花房家
赤坂郡神田(こうだ)村
土岐・蜂谷家の系図に、この家との縁合が記してあるのを見て、土岐家と重縁関係にあった守屋家の古い墓碑にもこの家との縁戚関係が記されていたのを思い出しました。また、土岐家発見のきっかけとなった大村家の系図によると、野々口から建部に出た初代浄讃の母親がこの家から出ていることから、遠く先祖を辿ればこの家の先祖も私の遺伝子形成に関わりを持つことが判りました。
守屋家の系図復元になにか参考になるのではないか、もしかしたら自分の新たな先祖発掘の手がかりになるのではないかと思い出すとじっとして居れなくなりました。
神田を訪ねてみました。
「石は落ちても花房は落ちぬ」
とわれて、かつては相当な勢いの家だったそうです。屋敷跡を見下ろす山の頂上に墓地があります。この山は「馬場山」といい、全部花房家が持っていたそうです。墓地を囲む土塀は全部崩れました。屋敷跡は井戸が遺っていて、今でもきれいな水が出ます。上がると表に大きな門があって、その門を開けた音が4kmばかり先の山口(赤坂町)まで聞こえたほど大きく、町苅田(赤坂町)と五日市(山陽町)に出るには他人の土地を踏まずに行けたそうです。屋敷跡には泉水がありました。山の上の方に石を組んであってそこに落ちた雨水を濾過しながら麓の屋敷まで導入するようになっていて、それを屋敷内の池に引いてありました。屋敷の広さは一反くらいでしょうか、いまでも長屋門の名残や、石垣が遺っています。石垣は頑丈に築いてあって、ずれません。表は四角い石ですが奥がずいぶん長いのです(=楔形の長い石を重ねてある)。蔵のあった下付近には『蔵の下』という地名が遺っています。蔵の上の方には屋敷神が祀ってあっります。裏の山には馬場山の墓地より前の古い墓があるそうで、京都から勧請したお稲荷さんも祀ってあります。
伴蔵は京都の加藤勝家という人の家来だったそうです。子供が結核で次々に亡くなったり、あまり良くないことが続いたのは、山のいちばん高いところに墓地を構えたからだと云われて、この後ろに土を盛ったそうです。絶家したあと、遺った道具類は系図と共に花房の酒屋に売られました。ところが、鎧の蓋を開けると体にデモノ(=膿瘍)が出来るとかで、武具は岡山の花房某氏にまた売られました。その二家の花房さんは、この墓をうちの先祖だといわれるそうです。
与三左衛門正吉――+――弥左衛門正次 ――弥左衛門秀次――+――十左衛門正風 ――+――又左衛門正乗 ――+ | 宝永5 享保16 | 宝暦4 | 安永5 | | 室 室 | 室 | 室 | | | | | +――女 +――女 +――女 | 大村甚左衛門妻 | 土岐房信妻 | 守屋邦美妻 | | | | +――女 +――女 | | 森嘉右衛門妻 | | | | | +――女 +――半内正儀 | | 平尾新九郎妻 | 寛延2 | | | | +――河原助五郎 +――猶原丹右衛門正武 | | 安永3 | | 室 | +――弥平治 | 土岐分家興 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――十左衛門正家――+――弥左衛門 | 享和2 | 文化2 | 室 | | +――伴蔵正信――+==次郎左衛門正徳 +――某 安政5 | 澤原氏 | 室正信娘 | | | 室正信娘 +――女 | | +――おふさ | | 天保14 +――某 | | +――良兵衛正・ | | 天保6 +――女 | | +――女 | | 澤原久知妻 +――女 | | +==順次郎清信 | 楢崎氏 +――楢崎円次郎 慶應2 室正信娘
分家の墓地には頂上にある宗家の墓碑と重複したものが建っているところもあります。
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