土岐(蜂谷)家
津高郡富原村





大村官右衛門房重の日記(一代記)には、富原、土岐という名前が頻出しています。房重の伯母が土岐家に嫁ぎ、その夫から孫の代までのことが書いてあるようです。
御津町史に「富原宇之介後圓左衛門、文化五年三月十一日苗刀免(土岐)」とあるので、一代記の記事と公文書記録が一致していることが解りました。

一代記に出てくる戒名(能生院他)の墓碑は富原の土岐家墓地に確認できました。
土岐・蜂谷家系図によると、能生院は三田守屋来右衛門の子で、母薫の実家である土岐家を嗣いだ人のようです。また、能生院を生んだ母の母は間野氏とあります。これにはたいへん驚きました。
「ここに書いてある、三田守屋、間野は何れも自分が今まで調べてきた守屋家と間野家のことだ!」
三田(みつだ)という村は他にありません。三田の槇山守屋家は詳しく調べていて、来右衛門という大庄屋を勤めた人もよく知っていした。年代的にみても、私が知っている来右衛門と能生院(土岐)は親子だといえます。槇山守屋家の墓地に、

来右衛門直好 寛延二年歿○山○窓居士
その室△△氏 寛保三年歿素雪本水清信女
その後室江崎氏理佐 明和五年歿○相○水

という墓碑があります。素雪本水清信女の△△の箇所は石が摩耗して判読しにくくて困っていました。ある郷土史の先輩(A氏)は、榎田氏と二字で読まれていたので、私もそうかなと思っていました。
平成12年5月、事情があって三田守屋家の墓地は歴代の墓碑が一箇所にまとめられて整理されました。
「ああ、遅かった。もう一度よく見ておくのだった・・・」
と思いましたが、整理された後の状態も見ていないので一度訪ねてみることにしました。

「素雪本水」の墓碑は幸いにして一番手前で、20×20×50cmほどの四角柱(花崗岩)になっています。どうせ魂抜きもしてあるし、少々動かしても怒られることはあるまい・・・(^_^ ;と思いながらそっと動かして文字を読んでみました。「守屋圓右衛門妻▲氏」と読めます。どうも一文字姓のようです。木篇があって、その右がよく判りません「横」と「榎」という文字を足して二で割ったような見たことのない文字です。こういう一字の姓の旧家も思い当たりません。

読んだ後に石塔を戻そうとして焦りました。予想以上に重いのです。これはもう元に戻せないかも?・・・と思うと冷や汗が出てきました。用意していた軍手をはめ、渾身の力を振り絞ってえいっ!とばかりに元の位置に戻しました。思えば、渾大防家の墓地では派手に木を伐採したり、齋藤家の墓地では生い茂った笹を蚊と戦いながら鎌をふるってなぎ倒しましたが、とうとう墓石まで動かす始末です。次第に感覚が麻痺して行くのがこわくなりました(^_^ ;

A氏は、来右衛門の初名を圓右衛門とされ、「○相○水」を来右衛門の後室とされましたが、墓碑に後室と明記はしてありません。古文書を拾うと来右衛門がはじめ圓右衛門と名乗ったことが判るのかも知れませんが、その前も、後の代も圓右衛門ですから判断が付きかねることも予想されます。江崎と土岐と読み違えたのだろうかとも考えられますが、守屋家歴代の夫婦をみると、いちばん隆盛であった時代は夫婦とも居士・大姉である他は、ほぼ居士・清信女になっていますので、「○雪○水」が土岐薫で良いかと思います。

富原には鴨方藩の猟場があったそうです。「今度お殿様がご殺生(狩猟)に行かれるので、準備万端整えるようにお願いします」と云う鴨方藩の家来から蜂谷家に宛てられた書状があります。これを見ながら、三田守屋家は鴨方藩となにか関係があったのではないかと思われる記事を思い出しました。倉敷市史に生坂大庄屋の略系図があり、五三兵衛妻に「室池田信濃守老女ノ子浅野ト云宮内賀陽刑部伯母」という難解な暗号が記されています。池田信濃守は鴨方藩主のことですが、藩主の子が農民に嫁ぐことはありえないので、「老女ノ子」は「家老の女子」ということだろうと思います。つまり、守屋家は鴨方藩から士分待遇を受け、その格式は家老級という程であったという位の意味だろうと思います。浅野の墓碑裏には三田守屋氏と彫ってあります。「宮内賀陽刑部伯母」は宮内村(吉備津神社の付近)の賀陽刑部(おそらく吉備津神社の社家の一つ)の伯母にもなるということだろうと思います。

土岐・蜂谷家の系譜の概略を記してみます。

            土岐             蜂谷
源頼光・・(9代略)・・五郎光定定親・・(4代略)・・兵庫大輔満房――右衛門大輔信國――+――七郎左衛門信房――+
                                   文禄4      |  室竹原氏     |
                                   室蜂谷氏     |           |
                                            +――久左衛門國高   |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

|                                土岐
+――藤三郎経房――+――與惣左衛門房治――與左衛門光房――+――左近右衛門房信==與左衛門治房――+
   室犬飼氏   |  宝永3      宝永6     |  元文4      大月氏     |
          |  室屋吹氏     室間野氏    |  室花房氏     宝暦1     |
          |                   |           室家女     |
          +――女                +==弥平治通直            |
          |  岡甚右衛門妻           |                   |
          |                   +――薫                |
          +――理右衛門重経              守屋来右衛門妻          |
                                                  |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==圓左衛門栄房――+――圓左衛門栄長――+――貞吉
   守屋氏     |  文化12    |  天明七年
   文化5     |          |
   室大村氏    +――女       +==要之介 ――+――圓左衛門
              守屋利弥太妻     津島氏   |  嘉永5
                               |
                               +――圓左衛門
                               |  安政2
                               |
                               +――改作  ――太郎 ――泰亮  ――泰史
                                  明治23  大正2  昭和4   平成14
                                  室大橋氏  室戎氏  室久保氏  室

先祖は清和源氏ですが、これは明智光秀と同じ土岐源氏です。家紋は「桔梗」です。久左衛門國高の支流になる蜂谷S氏の家も同じ家紋ですが、共同墓地にあるほとんどの蜂谷家の家紋は「井桁に右巻三つ巴」でした。
要するに、土岐源氏の一派である兵庫大輔満房という人が蜂谷姓を名乗ったようです。その子信國は金川の松田家に仕え、天正年中に松田家が滅んで後は浪人して西原に居住したそうです。富原集落は更に東原、西原地区に分かれます。妻は地元の豪族蜂谷将監の娘とありますから、この地区には元々蜂谷姓があって、そこに土岐源氏の流れの一族が入り込み合流したのかも知れません。

光房、栄房、栄長は大庄屋を勤めました。栄房は30年もの長きに渡りその職にあって、更に隠居して向山殿と名乗り、86才の天寿を全うしています。その子の栄長が大庄屋職にあった文化5年3月、向山殿が亡くなる4ヶ月ほど前に藩から土岐家に苗字帯刀御免という名誉が与えられています。
この頃が土岐家の最盛期であったようです。系図をみても、栄長の妻はおそらくは相当名の通った家から来られていると思いますが、この人たちを含めて、子から孫に至る経緯が今ひとつハッキリしない記述になっています。おそらく、系図作成どころではないような家運の激動があったのではないかと想像されます。現在の富原の他の集落の人が土岐姓を全くご存知ないのもこういう歴史の証明かも知れません。

系図によると、栄長の姉妹に三田利弥太妻というのがあります。これが、大村房重の日記にある、
寛政四年 三田利喜蔵妻死去富原土岐氏女歳十九法号能容院妙常
に相当するようです。倉敷市三田の墓地を洗いざらい調べましたがありません。それもその筈、土岐家の墓地の端に祀られていてかなり摩耗した石碑になっていました。



系図によると、房信の姉妹久に花房氏から半蔵という養子婿を迎えて分家、半蔵は後に弥平治と改名して宝暦7年に名主に就任、家女久が早世した後は野々口屋から後妻を迎えたと書いてあります。

蜂谷S氏が宗家、大元屋といわれた家の墓地を調べてみました。

弥平治通直――浅吉――與左衛門・・・――隆次郎 ――高則
花房氏                 鞭木氏   昭和30
室家女                 明治44
大村氏                室永原氏

土岐・蜂谷系図を信用すれば、これは宗家の墓地ではなく、土岐家の分家筋の墓のようです。新しい累代墓は「綾部」と彫られています。家紋は「結び雁金」で、先祖は花房伊勢守某と口伝しています。

「綾部」家の並びの墓地から何か判るかも知れないと思って更に調べてみました。



ここにはずいぶん古い時代の墓があるので最初に廻った時から気になっていました。土岐・蜂谷系図と照合しながら読みやすい墓碑を拾ってみると、系図と一致する墓が見つかり、古いものへと順にたどってみると、與惣左衛門房治夫婦の墓碑があることが判りました。系図では與惣左衛門房治の兄弟理右衛門重経が分家した家と云うことになっていますが、土岐家の墓地に房治以前の墓碑らしいものが全くないことから、この家が宗家、即ち大元屋になるのかも知れません。この家の家紋は「右巻三つ巴」となっています。富原集落の多くの蜂谷家の家紋が「井桁に右巻三つ巴」であるので、土岐・蜂谷一族の元々の紋は右巻三つ巴だったのかも知れません。

理右衛門重経==幸右衛門治正――+==惣治郎――常七郎==彦三郎――法蓮院――代三郎 ――治三治 ――辰太 ――+
        明和7     |  安永5  文化5       安政5  明治39  明治24  昭和5  |
        室家女     |                                       |
                +==太郎吉                                  |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――武男
   平成5

富原を訪ねたのは、土岐家の他にも気になっていた家があったからです。倉敷市西田の庄屋木村家に、津高郡富原村蜂谷文右衛門次男が養子に入っていることが頭にありました。しかし、その文右衛門の墓碑もS氏のご案内で簡単に見つけることが出来ました。

久左衛門國高――+――七郎右衛門國長
慶安2     |  寛文11
        |
        +――八太夫國義――三右衛門――徳左衛門――+――源太郎
        |  貞享     正徳4   宝暦13  |
        |                     +――丈太郎吉道――+――丈七郎為詮==為右衛門唯将――+
        +――彌兵衛國光              |  天明8    |  文政7    吉田氏     |
                              |         |         天保2     |
                              +――七五郎    +――勘七郎満福  室為詮娘    |
                              |                   室伊庭氏    |
                              +――八五郎                      |
                                                          |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――丈太郎唯詮――+――勝太郎為保 ――丈太郎 ――+――道彦
   安政2    |  明治37    昭和2   |  昭和55
   室亀山氏   |  室亀山氏    室近藤氏  |  室仲田
   室大森氏   |          室山成氏  |
   室守屋氏   +――忠次郎唯次         +――静
          |  岩藤家嗣             仲田貞四郎妻
          |
          +――女
             篠井保太郎妻

丈七郎為詮は、天明5年に五人組頭、次いで名主上座、寛政年間には大庄屋格となっています。土岐家に代わってこの頃からこの家が村役人の中枢に位置してきたことが判ります。為詮は宗家初代信國からの戒名を刻んだ巨大な供養塔を墓地中央に建てています。この人には女子しかいなかったので、備中北大福村吉田喜平太三男新作(=為右衛門唯将)を婿養子に迎えて相続させました。

道彦は岡山医科大学を卒業した医師で、同期生には元岡山県知事を勤めた三木行治がいます。広島逓信病院長を勤めて被爆、その体験を「ヒロシマ日記」として発表しています。私はこの本を図書館で借りて読みました。原爆の惨状は知っているつもりでしたが、改めてその非道さに驚きました。そこで、是非一冊手元に置いておきたいと本屋さんやネット上を探しましたが、既に廃刊となっていて入手できません。「ヒロシマ日記」のあとがきに同書が英訳されて欧米でも読まれているとありましたので探してみると、いまでも入手できることが判りました。



倉敷市史に篠井保太郎を中心とする系図があります。ここに、保太郎先妻に蜂谷氏、子に幾代と書いてあります。

勘七郎満福――+――益太郎光尚 ――剛平 ――+――好文
文政12   |  明治14    昭和5  |
       |          室三宅氏 +――蔦代
       |                  尾崎勇夫妻
       |
       +――文右衛門義光――+――
          万延1     |
                  +――弥三九郎
                     木村家嗣

剛平は東京市麻布区霞町で死去とありますので、この代から故郷を離れているようです。蔦代は帯江村加須山の医師尾崎勇夫に嫁ぎ、夫が死亡後に帰家しています。この尾崎家はこちらで紹介している家だと思います。


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