小畠家
備後国沼隈郡郷分村

小畠家は関東管領上杉顕定の子孫と云い、顕定の子直顕が、永正年中に神石郡小畠村に定住し、この時に上杉から小畠と改ました。
その子直重は、備中国後月郡内二万八千石を領有していましたが、天正十九年尼子氏旗下河合弾正と戦って敗れ、郷分村に移住しました。
上杉 小畠
顕定―直顕――直重――直興――総左衛門直好――七左衛門直信――七左衛門直政――+――治右衛門直本
元禄2 元文2 安永7 | 西土居
室岩清水氏 室森岡氏 |
+――伝次郎
| 川の上
|
+――七左衛門直峯――+
文化13 |
室中村氏 |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
| 活人堂
+==玄雄直大==直利 ――譲平直耕――+――大一郎直正 ――+――正太郎 ――+――正*
文政6 江国氏 明治33 | 大正15 | 昭和23 |
室内藤氏 室家女 室片岡氏 | 室荒木氏 | 室高橋氏 +――辰*
室 | | |
+――平次郎 +――米 +――完* ――+――・
| | 名越得之妻 室田辺氏 | 室逸見氏
+――女 | |
| 福武元敬妻 +――女 +――女
| 福武周夫妻 大津寄家嫁
+――女
| 小野達郎妻
|
+――芳之丞
| 梶谷家嗣
|
+――三子吉
加藤家嗣
七左衛門直峯で一旦先土居という本家は絶え、その跡を玄雄直大が再興しています。
直大は医師となって、玄幽と名乗り、眼科と外科を得意としました。これより活人堂(かつじんどう)と いう看板を掲げます。家紋は「丸に下がり藤」ですが、活人堂小畠家はこの中に三ツ星を付
けています。藤姓、宗派は日蓮宗です。
その後、二代直利(備前国御野郡萬成村江国清左衛門次男、妻は直大次女)、三代譲平直耕(妻は備中国下道郡岡田村片岡直吉娘、生九男四女)、四代大一郎直正(妻貞は千田村荒木周三郎長女)、五代正太郎(妻は竹原市高橋氏)と代々医業を継承しています。
直耕妻は墓碑では片岡氏しか見当たりませんでしたが、金光下竹の辻氏という情報もあります。
譲平の次女は備中国小田郡横谷村の福武家、四女は備中国浅口郡大谷村の小野家に嫁いでいます。同四男は備中国足守藩士加藤家の養子となり、同五男が備中国窪屋郡酒津村の梶谷家の婿養子になっています。大一郎の次女は笠岡市走出の名越家に嫁いでいます。
譲平の孫達が「いとこ会」を作っていたそうです。梶谷堅一郎、坂本金弥、小野鐵之助などがメンバーと聞いています。堅一郎と鐵之助が喧嘩をして止めになったといいます。
完吾の妻は倉敷市天城中島泰郎の実妹萩枝で、その嗣子の妻は西条の逸見氏、これは中島本家の縁先です。
治右衛門直本のあとは、
治右衛門直本――+――弥太郎
| 土光屋
|
+――惣右衛門――+――市右衛門
| 西土居 |
| +――伝蔵直盛――+==某
+――勘四郎 | 国光屋 | 室直盛次女
| |
| +――貞
| 直真妻
| 中條
+――玄逸直道 ――玄鼎直真 ――陸太郎 ――三喜男 ――敬太郎
室直盛娘
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