名越家
小田郡北川村走出





古曽森名越

・    ――繁八  ――平蔵  ――忠次良 ==直助  ――+――リキ
寛政8    享和2   弘化4   文政3   茅原氏   |  遠藤重之妻
室      室     室     室関藤氏  明治4   |
                               +――荒五郎利置――清治郎
                                  明治43   昭和13
                                  室三谷氏   室江本氏

忠次良のあとは長女梅(明治二十四年歿年八十三才 1891-83=1808)に養子直助を迎えています。
直助は甲弩村茅原儀右衛門男(明治四年 七十四才 1871-74=1797)とあります。
荒五郎は直助の次男で、妻志加は備後沼隈郡草戸村三谷源次郎四女です。清治郎(1880生)は荒五郎次男で妻千尋は南山田江本久寿長女です。
ほかに、明治十五年歿の初之丞(妻は西江原村三宅亀五郎娘)、初之丞三男儀三郎(昭和八年歿七十四才 1933-74=1859)の夫婦墓などが近くに建てられていますが関係が判りません。

一良右衛門系正==郡左衛門一則――+――市郎右衛門
文化6              |  慶應1
室        寛政12    |  室渡邊氏
         室系正娘    |
                 +――利登
                    赤松秀則妻

系正と市郎右衛門は、通称が一致するので同じ家の人と考えました。市郎右衛門妻は神代村渡邊弥吉娘です。
この系は、下記の平兵衛家と墓碑が混在していて区別が付きません。
赤松秀則夫妻の子柳右衛門隆喜が笠岡入江新田鳥越家を嗣いでいます。

古曽森名越

平兵衛 ――平兵衛 ――+――平兵衛   ――平兵衛有浄――平兵衛義知――+――美禰
      明和1   |  寛政2     文政5    明治15   |  茅原禎造妻
            |  室馬場氏    室三宅氏   室中西氏   |
            |                        +――林治郎幸盛――時太郎 ――+
            +――伊志                       明治30   昭和4   |
               笠原三治良妻                   室保田氏   室名越氏  |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――孝子
|  児嶋義雄妻

+==丈夫
   板野氏
   昭和58
   室白神氏

上記のように平兵衛を襲名する家があります。
甲弩の茅原家墓地に、
「禎造配名越氏名美禰名越平兵衛之長女安政元年九月帰焉挙一男一女 明治二十三年八月七日病歿五十三才(1890-53=1867) 慈眼院貞質妙忍大姉」
という墓があって、茅原氏の子孫から「うちは古曽森名越と縁がある」と聞きましたので、墓誌を参考に組み立てました。寛政二年に亡くなっている平兵衛妻「こん」は小田町馬場茂平治娘です。この馬場家墓地は同所中西家と隣接、一部混在して立っています。その中西家から孫義知の妻が迎えられていることから、馬場家と中西家も縁戚のように思われます。有浄妻は矢掛駅三宅伊兵衛娘です。
林治郎幸盛は「名越平兵衛六代裔」とあります。この妻松は川上郡成羽士族保田茂左衛門二女です。時太郎は林治郎長男、妻松代は同村名越三良治五女です。
孝子は時太郎二女で明治四十一年五月、広島県安芸郡坂村児嶋義雄に嫁ぎ、大正二年九月に出産直後に二十一才の若さで亡くなっています(釋尼貞真)。
時太郎のあと、吉備郡秦村板野清三郎三男丈夫と倉敷市中島白神昇平二女貞緒が夫婦養子で嗣いでいます。
「中洲町史(66頁)」によれば、昭和十年頃の町議会議員に白神昇平の名がみられます。

照三 ――+――偰朗  ――秀明
大正3  |  昭和55  平成9
室    |  室     室
     |
     +――白平
        大正13




弓場(いば)名越

林香  ――宗清  ――知空  ――了翁  ――三治郎  ――彌祐  ――慶治  ――為蔵  ――吉衛  ――+
延宝3   元禄4   享保9   宝暦11  明和4    寛政9   文化11        明治35  |
室           室     室     室      室     室                 |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――嘉八

+――宗治郎 ――+――梅子
   昭和15  |  田中不二夫妻
   室     |
         +――徳治
         |  昭和11
         |
         +――東
            昭和61
            室

弓場(又 射場)名越の墓地には延宝三年と同五年に死去した夫婦と思われる墓碑やその先代の墓と思われる籃塔など、かなり古く立派なものがあります。戒名に居士、大姉号がついたものを年代順に並べました。
信士、信女の墓碑は分家筋と思われ、嘉平太夫婦(妻知與は鴨方村徳永重治郎女天保二年歿)、為治郎(文化元年歿)などがあります。
三治郎の年代以降墓碑に姓が刻まれますが、三治郎には「名古谷」姓が入っています。宝暦八年に死去した幸十も「名古谷」姓になっています。「さがしています」という掲示板記事と一致します。投稿された名越氏は、「なごや」と読み、家紋は「三本傘」だそうです。
「東三成村赤松仙右衛門娘名越嘉七後妻」という墓碑があり、嘉七=慶治かも知れません。「嘉七娘矢掛町三宅松右衛門妻」という墓碑もあります。



中名越

儀右衛門  ――儀右衛門蠡三――儀右衛門  ――儀右衛門  ――作五郎 ――要一郎 ==立夫 ――是文
安永6     文政6     天保9     明治16    昭和16  昭和22  佐藤
室       室大塚氏    室鳥越氏    室名越氏    室     室渡邉氏  平成7
                                      室明石氏  室家女

中名越家は他の家と離れた集落にあり、定住初代の兄弟が別れたと伝えています。
「圭山乗仙信士 貞享三年」
という古い墓からありますが、俗名が確認できるものを上記のように並べてみました。

蠡三妻は小田郡大江村大塚文五郎女。
明治十六年歿の儀右衛門は「第十七世」となっています。この妻利嘉は「本村名越脩次二女」とありますが不明です。
要一郎妻三好は「浅口郡三和村渡邉多喜造女」、後妻婦美は「金浦村大字生江浜明石佐一郎五女」となっています。



南名越

淳助方起――+――仁兵衛方恭
安永3   |  明和9
室柳氏   |  室
      |
      +==善右衛門正豊――三郎兵衛景*――三郎治景英――+――金蔵
      |  原田氏     文久2     明治34   |  明治38
      |  天保4     室山本氏    室諏澤氏   |  室名越氏
      |  室方起娘                   |
      |  室横山氏                   +――みつ
      |                         |  溝手真七妻
      +――美喜                     |
         名越善七妻                  +――松代
                                |  名越時太郎妻
                                |
                                +――古村
                                   浅野弥十郎妻

*=目+方

淳助(五柱翁方起)妻は「備後國新市村柳弥治右衛門娘しの」
上記の郡左衛門一則夫婦墓碑の並びに、
「名越周助治通 天保六年 五十九才」と妻利津(東三成村浅野氏 天保十四年 五十六才)の墓がありますが、福山市新市町の安養寺にある墓地で、周助夫婦の次男が備後国蘆田郡中須村の梶田家に入っていることを知りました。柳家と梶田家もよく似たような家だろうと思います。
善右衛門正豊は、浅口郡中大島村原田忠三郎正起三男(天保四年 七十八才 1833-78=1755)で、諄助娘梅の婿養子として入嗣しています。梅は安永十(1781)年に早世し、「備後国津之郷村横山備中守末葉同名三郎兵衛女琴」が後妻に入っています。
笠岡市大島中乗時の政延山にある原田家墓地に、
「玄廓幽然居士、天明二年八月廿日原田忠三郎
 湛如寥空大姉、安永三年十月四日原田忠三郎妻当国浅口郡柏島村吉井氏梅」
という墓碑があり、原田正起に一致すると思います。

三郎兵衛景*(目+方)は正豊第五男で、碑文によるといったんは衰退した家運を大いに挽回したようです。妻山本氏との間に五男二女をもうけますが、第三男景英以外は皆幼くして亡くなっています。景*(目+方)は文久二年に七十才で死去しています(1862-70=1792)。
景英妻は「備後國安那郡下御領村諏澤熊五郎景為長女」

玉島上成の浅野家墓地に
「玉温妙貞大姉 弥十郎妻小田郡北川村走出名越三郎治六女古村明治二十三年七月二十二日二十四才」
とあります。
備中村鑑には走出村庄屋として名越三郎兵衛が挙げられていますが、景*(目+方)の墓誌にも「走出村為里正」とあります。



表名越

某  ――某  ――安左衛門――+――善七  ――武八  ――・  ――善七  ――小八郎 ――+――万亀太
貞享2  宝永2  享保3   |  宝暦1   宝暦10       文政2         |  明治17
室    室    室     |  室     室          室名越氏  室田邊氏  |  室田邊氏
                |                               |
                +――辰右衛門                         +――秀太郎 ―― 一男
                   分家                              昭和3   昭和53
                                                   室信岡氏  室飯田氏

最も古い墓から上記のように並べてみました。安左衛門には弓場名越と同様に「名古谷」姓が彫られています。
寛政十二年に死去した分家徳三郎の墓誌に
「辰右衛門次子辰右衛門善七之弟始異居分産至翁頗致富為土蒙」
とあります。
「覚心是空居士 天明五年十二月三日佐藤小八奇方
 唯心等空大姉 文政二年閏四月四日佐藤小八妻鶴」
という夫婦墓碑があり、武八と善七の間を佐藤小八奇方が縁戚関係で家を守っているようです。質店の正吾久孝の墓誌に「醸酒業を始め日毎月毎に家産が増えたが宗家の善七の家は衰えしかも跡嗣ぎが居ないのを哀れんでいた。善七の晩年に小七という男子が生まれ、間もなく善七が亡くなったので正吾は小七を育て、成長の後には田地財産を分けて宗家を復活させようと考えていた、それを果たせず臨終となったので遺言としてこれを実行させた」とあります。この善七は文政二年歿の善七、小七は小八郎のことと思われわす。
分家する度に勢い付くというのはどこの家にも見られます。
善七妻美喜は同じ株家(南)名越順助方起の娘です。
小八郎の墓碑には戒名以外何も記されていません。妻栞は下道郡矢田村田邊藤三長女です。夫婦の長男万亀太妻も「箭田田邊荘二長女リク」とあり、両田邊家は同じ家と思われます。秀太郎は小八郎四男で、妻弓野は広島県芦品郡戸手村信岡彦太郎二女とあります。



新屋
名越

辰右衛門――徳三郎 ――+――嘉平次嘉孝――+――禎蔵士徳 ――+――辰右衛門憬――勝造  ――+――富三郎
寛延2   寛政12  |  文化8    |  安政4    |         明治44  |
室     室真安氏  |  室名越氏   |  室上野氏   |  室      室片山氏  |  室
      室藤井氏  |         |  室片山氏   |               |
            +――女      |         +――與四郎          +――鶴亀   ――+
            |  小林家嫁   +――正吾久孝   |  片山家へ         |         |
            |         |  分家     |               |  室      |
            +――女      |         +――又蔵           |         |
            |  卜部家嫁   +――女      |  分家           +――万亀代    |
            |            大山庄蔵妻  |                  溝手諸平妻  | 
            +――女                +――廉蔵                     |
            |  藤野家嫁                嘉永6                    |
            |                                             |
            +――他二男                                        |
                                                          |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――全吉



+―― 一枝
   塩尻公明妻

最も古い墓から上記のように並べてみました。
徳三郎の墓誌に、本家から父辰右衛門が
「辰右衛門次子辰右衛門善七之弟始異居分産至翁頗致富為土蒙」
とあります。
徳三郎妻は小田村真安氏で、嘉孝の母です。走出から小田川を渡ればすぐに山陽道の堀越宿になりますので、ここで大庄屋を勤めた真安氏の一族から迎えられたのではないかと想像しています。徳三郎の後妻(吉井村藤井氏)には子がありませんでした。

嘉平次嘉孝(宝暦七=1757年生)妻は同村の名越唯七娘です。夫婦には三男二女があり、長男禎蔵が跡を嗣いでいます。禎蔵の姉妹は、本庄村小林家、備後国江良村ト部家、中島村藤野家へそれぞれ嫁いだとあります。

禎蔵(号士徳 安政四年七十六才 1857-76=1781)の妻千世は高屋村上野文兵衛久起の娘、後妻は備後国沼隈郡鞆津片山氏とありますので、與四郎の曾孫くらいになるのかも知れません。吉田育弘氏の情報によると、甲弩の大山庄蔵美冬(実は浅口郡阿賀崎村三宅鈴基氏寛政六年歿年五十 1794-60=1734)次男庄蔵妻が「走出村名越禎蔵妹」となっています。士徳の妹か、或いは辰右衛門憬も禎造を名乗っていたのかも知れません。

この墓地には「寛延四年 名古屋傳蔵」という墓碑があります。



質店名越

正吾久孝――+――徳三郎
天保7   |  明治30
片山氏  |  室佐々井
      |
      +――白平   ――+==為吉  ==仁三郎 ――得之  ――+――喜美枝
         明治41   |  田邉氏   鳥越氏   昭和9   |  妹尾直一妻
         室藤村氏   |  大正3   大正10  室小畠氏  | 
                |  室白平娘  室為吉娘        +==泰蔵   ――+――*
                |                    |  平成13   |  
                +――小貞                |  安原氏    |
                   藤村家嫁              |  室得之娘   +――伯平
                                     |            平成16
                                     +――和子        室浅野
                                        原田俊輔妻

正吾久孝は嘉孝の次男で、妻「みか」は東三成片山氏です。

徳三郎は正吾長男で大谷山に新田を開いています。備中村鑑に、
「大谷 名越徳三郎」
という記載がありますので、開発主として庄屋に任命されたものと思います。新田開発で生じた負債処理のために分家したと聞いています。
その妻羅久は「児島郡柳井田村佐々井良平長女」と碑文にありますが、これは「児島郡柳田村篠井良平長女」となるはずです。柳田は「ヤナイダ」と発音され、篠井も笹井、佐々井と表記されることがあります。児島下の町守屋家に所蔵される篠井・笹井家過去帳には、「善應院妙観自貞大姉 弘化四年十二月廿一日 林村尊流院妹 篠井良平母」という記録があります。この夫は作左衛門富長で、この夫婦の祭祀を行うべき嗣子は汲五平になりますから、良平=汲五平で良いと思います。

代三郎(白平)は走出村庄屋、甲弩村立入庄屋、走出村戸長、岡山県議、北川村長、笠岡紡績社長などを勤めて、地方の政財界で活躍しています。妻以輪は福山藩医下笹屋藤村氏です。藤村家は、その一族が福山城下で薬種商を営んだり、福山藩に仕えていますが、同じ株家から為吉の実兄田邉安八郎の妻が出ているようです。

為吉は白平の娘以登の婿養子となり、一女文をもうけていますが、以登が明治三年に四十五才で亡くなったため、都宇郡妹尾和田浄の三女久代を後妻に迎えて明治十八年に分家徳三郎の跡を嗣いでいます。
以登の妹小貞は母の実家藤村家に嫁ぎ、一子寿郎をもうけた後に離縁しています。

仁三郎(字静叔、号忍軒)は小田郡川面村鳥越小八三男で、為吉と以登の娘文の婿養子として入っています。
文は明治二年生で、仁三郎との間に一男一女をもうけて昭和二十三年に八十才で亡くなっています。

徳三郎  ==為吉  ――豊   ――+――晢
明治30   田邉氏   昭和32  |  長野曠妻 
室佐々井氏  大正3   室桑田氏  |
       室和田氏        +――章
                   |  三上嘉明妻
                   |
                   +――道
                   |  赤松家へ
                   |
                   +――淑
                   |  山成家へ
                   |
                   +――泰
                   |
                   +――誠

豊(字亭卿、又来章、号霞渓)は為吉と後妻久代の間に生まれた子です。その妻松枝は鞆津の桑田宮五郎娘です。母方(和田家)の親戚になる児島郡下村(倉敷市)の佐藤家が経営していた製塩業にも参画し、佐藤龍水会の理事に就任しています。佐藤家やその親戚になる高田家、由加山蓮台寺に建てられた渾大防益三郎の顕彰碑など、多くの碑文を書いています。

豊の長女晢(せつ)はいったん佐藤家の養女となりますが、その後事情があって復籍した後、総社市服部村窪木の長野曠に嫁いでいます。


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