間野家・生坂屋
窪屋郡大島村
この家が株家になることは聞いたことがありませんでしたが、菊池家の系図にこの家との縁合が書いてあるのを見つけ、菊池家を調べましたがはっきりせずそのまま放置していました。
ある日、郷土資料に、大正頃の村会議員間野鯛治という名を見つけたので、もしかしたら関係の家が残っているのかも知れないと思いました。「屋号が生坂屋といって、先祖が生坂のゴサンベエと聞いている」という家がありましたので墓地を調べに行きました。なんとそこには清水家所蔵の間野家過去帳に記録された多左衛門夫婦の墓碑が建っていたのです(下写真)。
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壱軒
一家内七人内男五人
女弐人 多左衛門
内
壱人 多左衛門 歳四十八
壱人 女房 歳四十二
壱人 婿正右衛門 歳三十二
正右衛門妻
壱人 娘ぎん 歳二十七
壱人 孫吉之丞 歳 九
壱人 孫幸次郎 歳 六
壱人 孫茂市郎 歳 四
牛弐疋
多左衛門夫婦の墓碑は見つかったものの、数代前に一旦絶家したあとを親族の高橋家から養子を迎えて再興したということで、過去帳、位牌のような先祖を記録した書類もなく、おまけに多左衛門夫婦の墓碑から後の多くの墓碑は磨耗して判読が非常に困難になっています。
多左衛門 ――正右衛門 ――+――多左衛門 ――+――吉左衛門 ――惣三郎 ==慶太郎 ――多喜治 ――+ 正徳3 享保4 | 安永1 | 寛政4 弘化4 高橋氏 大正4 | 室木村氏 室家女 | 室菊池氏 | 室 明治23 室文屋氏 | | | 室佐々木氏 | +――幸次郎 +――惣右衛門 | | | 高橋家へ | | | | +――茂市郎 +――女 | 間野家嗣 坪井与右衛門妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――泰治 ――+――歓一 ==明 | 昭和15 | 昭和62 児玉氏 | 室松永氏 | 室 平成18 | | 室小松氏 +――寿二 +――多美子 難波家嗣 小松家嫁
菊池家系図と上記百姓帳、及び一部判読できる墓碑から並べてみました。
倉敷市中庄の木村家墓地に、
「**妙散信女、寛政四年、大嶋村間野氏
**了心信士天明三年、坪井与右衛門」
という墓碑が発見されました。吉左衛門のきょうだいくらいになるのではないかと思います。
清水家にずいぶん景気の良い話が伝わっています。一つは「倉敷駅までは他人の土地を踏まずに行けた」、もう一つは「梶谷から来たおばあさんは他人の土地を踏まずに嫁入りをした。その嫁入り道具が生坂に着いた時に、最後尾はまだ酒津にあった」というものです。前者の言い伝えは、大島(=倉敷駅から近いところ)の株家があり、生坂の一族の土地と大島の株家の土地が続いていたということだろうと解釈できます。後者の言い伝えは、江戸末期から明治初年頃の土地台帳でも実証できるようです。梶谷家の所有地が西坂の隣村平田まで伸びていたこと、間野織之助(與平克明)所有地が生坂から西坂まで、かなり残っていたことから、上手くつなぎ合わせれば酒津と生坂清水家が株家の所有地で地続きであったことが解ります。何れも厳密に云えば大げさな話になると思いますが、端から言い伝えを馬鹿にせずに真面目に考察してみるのも先祖の足跡が解るものだということをお伝えするために記しておきます。
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