守屋家・田島
窪屋郡三田村



槇山守屋家の卓爾(卓二)は後に家督を長男金造に譲り、かつて田島姓を名乗った家を再興しています。田島姓は守屋家先祖の但馬守(タジマノカミ)から由来するもので、囲碁の名人だった田島源五郎邦美の墓碑には、守屋家の先祖は某州の刺吏であると書いてあります。
一般に、絶家した分家は無視されて祭祀を引き継ぐ者がなければ墓碑は無縁となりますが、絶家した本家は時に再興されることがあります。

邦美墓誌によると、源五郎は七歳で囲碁を覚え、成人になる頃には三備(備前、備中、備後)に源五郎にかなう者はなく、後に京都の秋山仙朴に師事して奥秘を窮めて帰郷しています。邦美は天明六(1786)年に享年七十九才で死去していますので(1786-78=1708)、宝永五(1708)年の生まれとなり、百姓帳(下記)が作られて間もなく生まれたようです。墓誌は文化十五年三月に(義)孫守安慎輔(=介三郎久孝)によって、約三十年も経ってから書かれています。

田島
源五郎邦美――+==圓太兵衛邦弘==源五郎――・(途中不明)・――卓爾
天明6    |  林氏      室家女
花房氏   |  明和2
       |  室家女
       |
       +――女
          三宅平郷妻

黒川は、
「分家守屋氏後改姓田島氏、初代は本家三代直宗の子曽兵衛、三田村庄屋を拝命」
とあります。ところが、宝永五年の百姓帳で曽兵衛(曽平)の家族構成を見ると、

壱軒
一家内七人内男五人
      女弐人      曽平
    内
 壱人    曽平     歳四十五
 壱人    女房     歳四十一
 壱人    子五三郎   歳二十一
 壱人    子才次郎   歳 十四
 壱人    子勘五郎   歳  八
 壱人    父庄次郎   歳七十九
 壱人    母      歳七十九
  牛壱疋

となっていて、曽平は初代ではないことが明かです。黒川は宝永五年の百姓帳の存在を知らなかったのです。
曽平は長さ三十四間、横一間(三十四坪)の呉竹薮(請銀一匁五分八厘)と二箇所で計一町九反の小松山を所有しています。
庄次郎とその妻の墓碑も寺屋敷の墓地にあり、忠左衛門直宗夫婦の墓にひけを取らないような同型のおおきな墓碑で、庄次郎より前の代の墓碑が見あたらないことから、庄次郎は治左衛門の子、即ち忠左衛門の兄弟で分家したと考えていました。本家の当主権兵衛が大庄屋となり、政務が増えるに従って、分家の当主曽平が三田村名主としての政務を担当したと思っていました。このように株家で庄屋・大庄屋を一緒に勤める例があるのですが、分家が出世して大庄屋に就任する例もよくみられますので、守屋一氏が云うように曽兵衛の家が本家で権兵衛の家が分家なのかも知れません。上記の宗門帳をそのまま系図に仕立てると、

庄次郎――曽兵衛――+――五三郎
正徳1  享保7  |
室    室    +――才次郎
          |
          +――勘五郎

となり、勘五郎の弟が源五郎となるのかも知れません。

平成十二年八月に、岡山市富原の土岐・蜂谷系図に巡り逢いました。この中に、三田守屋家との縁合が記されていて、土岐與左衛門治房(元禄十一〜宝暦一)という人が、実は備中松山水谷公の家士大月傳左衛門の子で、母は赤穂義士吉田忠左衛門の姪、三田妙印妹とありました。曽兵衛の妻は享保十八年に六十六才で亡くなり、戒名は「心覚妙印信女」です。治房の叔母薫が守屋来右衛門直好妻となり、治房の跡を嗣いだ栄房が直好の子ですから、槇山守屋家と曽兵衛の家はきわめて近い親族であったということが理解できます。狭い村内でこういう関係にある時には、両家が株家であるという証明になります。



庄次郎、曽兵衛らの墓碑は守屋力が管理しています(上写真)。
左が以前に撮影したもの、右は何年か後のものです。墓碑配列が変わっているのが解ります。守屋力が墓碑を配置換えしています。
力家の家紋は大庄屋家と同じ九曜ですが、同家はもと平松姓で守屋の株家ではありません。観音堂に墓地を持つ九曜紋を使う平松鎮馬家から分家して曽兵衛の家の祭祀を引き継いでいるようです。守屋一氏によると、平松家は槇山守屋家の衰退期にその田畑を購入して勢いがあったので、槇山が管理できない田島家の祭祀を引き継いだのではないかと云われます。

田島守屋の墓と云われるものは上記(丁墓地)の他に、寺屋敷の一番奥(南 守屋一管理下 甲墓地)、寺屋敷東側の栄太郎家の墓地の手前(守屋一管理下 乙墓地)、それに寺屋敷墓地の北西(槇山守屋家の管理下、源五郎邦美の墓碑が含まれる 丙墓地)にあった一画、更に上写真右に続く奥(現在は無縁 戊墓地)と何ヶ所もあるようです。
おそらく田島守屋にもいくつか分家(槇山守屋もこの一つかも知れません)があったのではないかと思いますが、このように分割されて管理されている(祭祀を引き継いでいる)。
戊墓地には田島圓太兵衛の墓碑が含まれますから、丙墓地と一緒に祭祀を引き継がれて当然であったはずですが、平松鎮馬の家が植田吾一の頃まで槇山守屋の墓地管理を請け負っていたところが、その事情を知らない正巳氏が旧槇山守屋邸址に住む松田勝年氏(豆腐屋)へ祭祀を依頼したために、引継が出来ずに祭祀が取り残された墓碑のようです。

土岐栄房妻の甥にあたる備前領津高郡大庄屋野々口村大村官右衛門房重の日記に、次のような事件が記されています。
寛政元年、備中三田村の源五郎と松島村の松右衛門の間で銀壱貫目の貸し借りがあり、返した貰っていないと云う問題がおこり、その取り次ぎをした松島村八幡宮神職三浦八百会を交えて寛政五年十二月二十八日の夜に話し合いがありました。話がもつれたのか、八百会は刀を抜いて七十才になる松右衛門と忰(各々三十九才、三十五才)の三人を切り殺しました。このため三浦父子は取り調べを受けて入牢しました。
松島村(現倉敷市松島)八幡宮の神職は同村松前寺善明院助太夫の還俗に始まり、子淡路(元文元年九月病死)、孫大和(天明四年十二月病死)と続き、八百会は四代目です。
親類先の大事件ですから房重が書きとめたのでしょうが、ここに出てくる源五郎は邦美の孫になると思われます。

平松鎮馬の先祖は松島のお宮に仕えた人と聞きますので、もしかしたら三浦八百会の縁者かも知れないと思います。
また、鎮馬の分家筋の美和子が撫川の俣野家に嫁いでいますが、この俣野家は守屋卓爾の後妻野婦の実家の分家になるそうです。


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