私の家系図調べ その五


間野氏からもお返事を戴きました。まず、私が書いた問い合わせの手紙を記してみます。

拝啓
 突然、お便りをさせて頂きます。私は清水慶一と申しまして自分の祖先に付いて調査しています。
 清水家は、私の祖父(稼太郎)の祖父(利太郎貞基)の代に間野から清水に改姓しましたが、清水(間野)家は、石原家と何代にもわたる親戚関係があったため、石原家絶家の後も祭祀をみていたようです。現在も清水家には石原家、明神の内墓地に埋葬されている石原茂一兵衛と、その妻の位牌が祀られていますし、昭和*年に死去しました私の祖母多喜野(稼太郎妻)は、石原家墓所にも墓参をしていました。ところが、法務局でこの墓所の所有者を確認致しました所、貴方様方のお名前で登記がなされていることが判りました。
 郷土資料の記述には、間野五三兵衛義明の実父は石原兵右衛門正明とありますが、同墓所に
享保十三年*月○日 **是三居士、伊原兵右衛門
という墓碑がみられますので、この墓所の所有者である貴方様方も五三兵衛義明氏の子孫の間野氏ではないかと思います。
 郷土資料には五三兵衛義明以前の間野(清水)家の記載があり、五三兵衛義明から数えて六代前の寛永十一年八月十八日卒の間野源左衛門貞家の位牌は清水家にあることが判りました。従って、源左衛門貞家の次代に現在の間野家と清水家の祖が分かれたものと考えられます。
 そこで、早速ですが、次の事項に付いてお教え頂けないでしょうか。
(一)どなたの代まで、どの辺りにお住まいでしたでしょうか。明治維新後に離れられたか、本籍地を移動されていらっしゃらなければ、地番もお判りでしょうからお教え下さい。
(二)郷土資料に記載されている清水及び間野家の家譜は間野尚明氏から得た情報を尾崎**氏が纏めたようですが、清水家に残る古文書とこの記載は少し異なるようですので、源左衛門貞家とそれ以前の先祖について、なにか参考になりますことが有りましたらお教え下さい。
 突然の手紙で、誠に不躾なお願いを致すことをお許し下さい。
 末筆ではありますが、皆様のご健勝を心よりお祈り申し上げます。
                             敬具
                   平成元年四月
  間野K様

**是三居士の墓碑は下写真のように、大人の背丈を遙かに超える巨大な自然石で出来ています。その前に見える新しい墓標は伯父が建てた累代墓の一部です。祖母は、墓地の登記が間野延太郎となっていることは知っていたようですが、「墓を建てるならあそこに建てればよい」と伯父に指示したそうです。墓地登記簿自体を信用していなかった、間違った登記がされているとの認識を持っていたのではないかと想像しています。

返事は要点のみ記します。

○ ご指摘通り私は五三兵衛の子孫です。間野と石原の墓地は祖父の名前で明治に表示登記されています。
○ 五三兵衛、英明と石原より二代続いて養子を貰いました。その後、石原家が絶えてしまったので間野で石原の墓地を引継いだと聞いています。
(一) 祖父春治の代に離れました。本籍は**番地です。
(二) 私のところには、慈徳院弃本任風居士(寛永十一年八月十八日)の源左衛門の命日を記した書類があるだけです。
○ ご存知のことと思いますが、**番(生坂字屋敷ノ内)に墓地があります。間野與平は私の祖父の祖父ですが、貴方様の祖父の祖父にあたる清水貞基との共有になっております。

英雄氏はお返事を書いていただいた間野様の叔父になることが後になって判りました。
隣の墓に幼い頃から謎の人だった「ごさんべえ」が眠っていることが判りました。
五三兵衛をある時には先祖といい、大恩人といいながら、ある時は全く関係のない墓だという矛盾、この矛盾はその後次第に自分の中で整理されつつあります。

間野氏から、與平の縁合覚と間野東明氏から宛てられた先祖書写をご提供いただきました。

與平が書き遺した縁合覚には、清水家のことを次のように記してありました。

「同姓の孤児を養い五三兵衛実家石原より養子を迎えて新たに分家する 茂利治(室玉嶋岡本屋)文太夫(室尾上則武與四郎娘 後室三田戸長守屋氏)利太郎改淡平(室梶谷伊平治妹)清水石太(室山北門屋

なお、間野東明氏先祖書写には、義仲朝日将軍(木曽)、清水冠者義高、為頼、義治、治興、義教、義信、義貞、貞氏と続くことが記されていました。これをもとに数えると、木曽義仲から祖父稼太郎まで二十二代となって、ほぼ父の記憶通りになるようでした。

時代劇に出てくる代官様というのは、刀を差して侍の格好をしています。
見るからに何処かの藩に仕える上級武士です。
しかし、代官の本来の意味は「地元徴税責任者」ですから、遠く離れた幕府や藩庁から領地を管理するために出張してきた侍のこともあれば、民間活用で農民の中から抜擢されてその任につく者もありました。
後者は代官庄屋、大庄屋などとも呼ばれました。

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