仁科家
浅口郡濱中村
濱中は摂津国麻田藩青木氏の飛地(地元から離れた領地)で、仁科家は領主の年貢のとりまとめをする代官役を勤めていました。代官というと偉そうですが、天領倉敷などに幕府から派遣された代官とは違って、もとは農民で大庄屋の代わりに置かれたものと考えた方が良さそうです。
仁科代官は、浅口郡上新庄、下新庄、濱中(いずれも里庄町)、小田郡関戸(笠岡市)の4ヶ村の政務を執り、藩の許可を得て、濱中札という紙幣(藩札)を発行していました。このため明治維新で藩札が使えなくなったとき、仁科家は潰れてしまった藩に代わって藩札の保証(藩札の買い取り)を行っています。このため、当主の存本は家財を売り払って金(新政府の発行する金)を工面するなど、たいへんであったようです。江戸時代に大庄屋や藩の下役人などを勤めていた立派な家が、明治維新でドミノ倒しのように幕府や藩と共に倒れていきましたが、たいていはこういう仕掛けのようです。
共同墓地後方の土塀で囲まれた区域に存本以降の墓碑が並んでいます。存本の代から祭祀を神道に切り替えたのでこのようになっているようですが、墓地には江戸初期にこの地方で多く建てられた「らんとう」墓の崩れたものも数基あり、江戸初期からこの地に住んでいた家であろうと思われます。周囲には「丸に梅鉢」の家紋の入った仁科姓の墓碑がたくさん建てられています。
・・秀敏 ――四郎右衛門秀之――小兵衛唯則――小左衛門秀門――+――順 宝永2 天明1 | 仁科正妻 室大嶋氏 室 室森谷氏 室守屋氏 | +――和平太秀勝――女 | 文政6 原田種政妻 | 室守屋氏 | +――秀高 ――小兵衛光春――+ 文化2 | 室守屋氏 室抽井氏 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――ナカ | 佐藤久兵衛妻 | +――匡平存本――+――恕平存譲――+――武四郎存之 ――克己 ――+――泰 明治23 | 明治23 | 明治12 明治44 | 昭和19 室中村氏 | 室佐藤氏 | 室岡本氏 室陸 | 室丸山氏 室佐藤氏 | | | | +――タカ +――存 | 佐藤久兵衛妻 | | +――忠之 | +――七郎存仁 ――藤太郎 ――+――孝義 | 明治25 大正8 | 大正4 | 室斎藤氏 室喜代 | | 室西尾氏 +――晃 | | 平成4 | | | +――重友 | | | +――宗和 | | | +――慶子 | | | +――光代 | | | +――辰子 | +――健吾 | 阿部家嗣 | +――存正 ――+――亮作 ――嘉治男 | | | 室大崎氏 | 室白石氏 | | +――仲 +――遠平 | | | +――喜代 +――浅 | 藤太郎妻 | +――陸 | 克己妻 | +――とよ | +――保夫 ――+――女 | 昭和24 | 岡進妻 | 室岡西氏 | | +――女 | +――とく | 内田金衛妻 | +――芳雄 ――+――雄一郎 | 昭和26 | | 室 +――浩二郎 | +――正道
青木藩代官を勤めた匡平存本の3男存正は農業と製塩業をはじめますが、存正4男芳雄は原子物理学者として有名です。岡山中学(現在の岡山朝日高校)、第六高等学校を経て、東京帝国大学工科大学電気工学科を首席で卒業、理化学研究所からヨーロッパに留学、デンマーク・コペンハーゲン大学理論物理学研究所のニールス・ボーアのもとでX線散乱実験を行い、クライン・仁科の公式を導いています。帰国後は理研の仁科研究室を中心に研究や後進の指導にあたり、後のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎両博士におおきな影響を与えています。昭和19年までに、原子爆弾製造にも応用できる大小のサイクロトロンの建設に成功しますが、大戦後にGHQの指導で壊されています。広島に新型爆弾が投下されたときにも、いち早く現地を調査して原子爆弾であることを確認して政府に報告しています。仁科博士は、昭和26年に肝臓癌で死去されていますが、広島での新型爆弾の調査で被爆したのが原因ではないかといわれます。現在、濱中の生家は一般公開され、国道2号線をはさんだ反対側には、子供達が遊びながら科学を学べる仁科記念館が建てられています。
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