小郷家
窪屋郡生坂村





窪屋郡生坂村の日蓮宗大乗寺僧侶から寛文年中の法難に遭って神職に転向した家です。寛文年中の法難というのは、儒教に狂った備前藩主池田光政が当時の僧侶の堕落を非難して、あちこちの寺を潰していった事件をいいます。宗派を問わず、ばっさり切り捨てられたようですが、とくに日蓮宗の寺社は怪しげな祈祷をしては民衆から金を巻き上げているといって、おおいに虐められたそうです。そのため、やって行けないと判断した僧侶達はいったん還俗(げんぞく、=ふつうの人に戻ること)しました。

頭を叩いて病気を治すとか、足の裏を眺めて病気を診断するとか、挙げ句の果てには死んだ人を生き返られせるだのと、たいへん怪しげな宗教法人の活動が世情を賑わせました。宗教というのはどうしてもお金と結びつきやすいようです。おかげがあったのか、偶然だったのか、ともかくお願いをした人がのぞみがかなえば、何とかしてその感謝の意を表したいと思います。感謝の意を表すためのいちばん容易い方法が金銭です。宗教家はもともと無欲の人なのかも知れませんが、金銭をもらうようになると並の人間の感覚は麻痺して行くでしょう。宗教家は本来、並の人間ではないはずですが、化けの皮が剥がれると言うのか、もともとそんなに立派な人はいないのか、とにかく凡人にとても解りやすい結果になってしまうようです。

都窪郡誌に載せられている生坂東雲院(東照山真光寺真如院)の歴史によれば、寛文より前には、この寺が生坂と西坂の氏神である大川、八幡宮の別当職をつとめていたそうです。寛文年中の法難で、この職を召し上げられ、大乗寺の還俗坊主小郷阿波に神職を仰せ付けられたとのことです。

宝永5年の生坂村百姓帳をみると、下記のように、生坂村には既に小郷、古屋野の2軒の神職家があったようです。宝永5年の生坂村百姓帳をみると、下記のように、生坂村には既に2軒の神職家があったようです。

 薮壱ケ所長拾八間    くれ竹     小江内蔵之助分
     横弐間
  請銀壱匁八分
 薮壱ケ所長拾六間    くれ竹     古屋野宮内分
     横壱間
  請銀六分八厘

只今迄ノ請銀合弐匁四分八厘

 山壱ケ所  山畝凡弐反三畝  小松山  小江内蔵之助自林
 山壱ケ所  山畝凡八反    小松山  古屋野宮内 自林
 山壱ケ所  山畝凡六畝    小松山  同人    自林
 山壱ケ所  山畝凡七畝    小松山  同人    自林

壱軒神職
一家内七人内男四人
      女三人      古屋野宮内
    内
 壱人    宮内     歳六十一
 壱人    女房     歳 五十
 壱人    子猪兵衛    歳二十三
 壱人    子亦次郎    歳 十六
 壱人    子惣九郎    歳 十三
 壱人    娘里ん(りん) 歳 二十
 壱人    娘せん     歳  八
  牛壱疋

壱軒神職
一家内五人内男四人
      女壱人      小江内蔵之助
    内
 壱人    内蔵之助   歳 三十
 壱人    弟傳七郎   歳二十八
 壱人    弟権次郎   歳二十六
 壱人    従弟善兵衛  歳四十五
 壱人    母       歳六十二
家数合弐軒人数拾弐人内男八人
           女四人
   牛壱疋

このように、日蓮宗僧侶から転職した小郷家は古屋野家に比べてその財産が少なかったようですが、生坂村に住んで他村の神社の管理を引き受ける場合もあったと思いますので、各々の家が実際にどれだけの神社の世話をし、それによってどれだけの収入を得ていたのかはよく判りません。しかし、明治3年の宗門帳では、下記のように、社方はただ1軒になっていて、古屋野家はいつの間にか姿を消しています。なお、社方、寺方は一般農民とは別綴りの宗門帳になっています。

阿波正直――+――内蔵助正伯――+――大弐正名――大澄正信――財治(大弐)==春海正久――+――丈夫  ――――+
宝永3   |  寛延3    |  寛政9   文政3           明治32  |  昭和16    |
小野氏  |         |                            |          |
      +――傳七郎    +――隆明                        +――かね      |
      |            大守家嗣                      |          |
      +――権次郎                                 +――やす      |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――正博
|  昭和16

+――鹿喜男
|  大正9

+――晴美(春海)
|  昭和31

+――一虎

+――清文
   大正3

正直はもともと大乗寺の僧侶で、善太夫とか受庵と名乗っていました。内蔵助は、生坂神社の土地所有権争いの当事者で、これは清水家所蔵文書に経緯が書かれています。文書には「正継」と彫られた印を押していますが、正伯=正継なのか、正継は正直以前の先祖の諱なのかは判りません。正久は、播磨を名乗り、ハリマ→ハルミ→春海と改名したのかも知れません。こういう駄洒落的インスピレーションも系図の組立に思わぬヒントをもたらすことがあります。

長い間続いた小郷家ですが、神職としてのつとめは晴美氏の死去後、奥様が引き継いでいましたが、昭和55年に亡くなられたあと、他家に譲られました。家系としても、一虎氏の死去を以て完全に相続者が居なくなりました。


ホームページへ