間野家・笘屋 摂津国大坂九条本田

間野家・笘屋
摂津国大坂九条本田



生家(清水家)の古文書の中に、茂利治の弟茂兵衛について書いたものを見つけました。
「圓月浄心信士様
        文政十一年戊子八月
 俗称間野茂兵衛大阪九条本田
 笘屋ニ而卒ス間野茂利治弟ナリ是
 亦本国ヲ去テ大阪江移住シ商家トナル」
罫線付きの用紙が茂利治妹於清の消息を書いたものと同じですから、「是亦」というのは、於清の夫藤井飯瓶と同様という意味だろうと思います。

後に、茂利治甥中島富次郎の一代記に、
「一 四十七歳 子年(文政十一年)
 生坂叔父茂兵衛君大坂笘屋久兵衛分家に暮し候処八月十三日死去」
という記録があることも知りました。

私の父は四人兄弟の末子ですが、本家を相続した長兄には男子一人です。次兄には二男子がありますが、長男は娘一人、次男には子がいません。父のすぐ上の兄にも女子二人だけで、二人共に他家に嫁いでいます。祖父には妹二人だけ、曾祖父にも妹一人、高祖父には姉一人、という具合です。親戚がない寂しい家だという印象は、祖父以前のきょうだいを知らない幼いうちから、大人たちの会話を聞いて感じていました。そこで、この間野茂兵衛の書類を見つけた時には、何処かに子孫がいるのかも知れないという強い期待がありました。

しかし、捜し出すのも夢のような話、大阪駅の構内ではぐれた人と放送なしに出会える確率の何倍も何十倍も難しいと思いました。それでも、平成元年七月、大阪市内の電話帳から間野姓を抜き出して往復葉書を送ったことがありました。何通かの返信は戴けたものの、当然のことながら、該当の家は見つかりませんでした。

平成四年六月には大阪市西区本田の各寺院宛に間野姓の檀家の有無を尋ねた手紙を書きました。八月に九島院住持様から戴いたお返事に、
「笘屋という屋号は飯田直好という大富商で海運業者が居ります。飯田家は屋号を笘屋と称し、久兵衛を通称としたそうで、戎島(本田地区)で幕府の回船御用達をしていた者が記録にあります。」
とありした。この時に久兵衛という名を知っていれば、もう少し深く追求したかも知れませんが、前記中島富次郎の一代記を確認したのはずっと後のことで、それを見たときにはこの住持様からの手紙のことを忘れていました。

平成七年九月、その三年半ほど前に初対面でお話しした日系米国人T氏が再訪、この時に欧米の家系調査の実態を聞かされておどろきました。T氏との連絡手段に使うため、パソコン通信に入会しました。

パソコン通信には歴史フォーラムという同好会があり、そこで天保八年二月に起きた大塩平八郎の乱について研究されているNさんにお逢い出来たので、笘屋間野家や塩屋藤井家についてお尋ねしてみました。

平成九年元旦、Nさんから次のような連絡を戴きました。
「年末に大塩終焉の地を歩いたときの史跡マップを見つけ、それに「飯田家邸の跡」が紹介されていました。近辺に大邸宅をもっていたそうです。この発見に興奮してしまい、元旦の朝から史跡散歩にでかけました。飯田家邸の跡は西区川口の本田小学校南隣にあります(下写真 左)。飯田直好の墓は九島院へ入ってすぐ左手にありました(下写真 右)。側面はもう崩れ落ち、文字も読めなくなっていました。新しいお花が供えてあったので、どなたか縁者の方が訪れているのでしょうか。幕府の用達で、かなり著名な人だったようです」

屋号が一致する商家は現代にも多いので、姓が違うのであまり参考にはならないかと思いました。
「笘屋」というのは代々大きな海運業者であった飯田家の屋号で、四代目の直好は幕府に民間船の起用を進言して幕府御用達差配として登用されています。また巨額の私費を投じて安治川の修復に努め大阪の発展に貢献しました。

正月九日に、Nさんからまた連絡がありました。飯田直好の子孫が判り、飯田家の墓は天王寺区下寺町にもあるとのことです。

さっそく飯田様に電話してみました。飯田家の過去帳に、
「間野茂兵衛 圓月成心信士 文政十一年八月  年五十六 別家」
と記載がありますが、系図には掲載がないとのことでした。飯田家の家紋は「四つ貝」です。
「お墓をみていただいている超心寺のご住職から『お宅は間野様宅とはどういうご関係ですか?』と尋ねられたことがあります」
と云われるので、心躍らせながら超心寺に電話をしてみました。
手元の間野茂兵衛の記録を読み上げると、さっそく過去帳を繰っていただき、その場で一致することが判りましたので、ご子孫間野興平氏の連絡先を教えていただきました。

興平氏は、
「先祖は藤井若狭守政安と聞いている」
とのことで他に詳しいことは判らず、古い過去帳はお寺(超心寺)に託して処分してもらったとのことでした。
念のために超心寺に確認すると、預かった過去帳が立派で、間野家とお寺の関係も親密であったので、処分できずにそのまま保管されているとのことでした。
さっそく、三月十六日にコピーさせてもらおうと超心寺を訪ねたところ、持ち帰って調べて下さいと云われて拝借して帰り、後日、宅急便で送り返しました。
笘屋間野家のお墓は寺の境内にあり、生坂の清水家と同じ「丸に剣酢漿草」の家紋が入っていました(下写真)。

過去帳は嘉永五子年三月に平八貞英が記したものを孫の光三が書き改めたものでした。
一通り目を通すと、笘屋間野家を興した茂兵衛夫婦には子がなく、姉於清(藤井)の子平八(瓶八)を養子に迎えて貞英と名乗らせていることがすぐに解りました。K氏が云われた「先祖は藤井若狭守政安」という意味が理解できます。

過去帳に、
「俗名間野松蔵 昭和十三年十一月 於東京歿」
というものがあり、K氏によると、クリスチャンで、昭和の金融恐慌の引き金になった神戸の鈴木商店の支配人を勤めたそうです。
「廣譽真観禅定門 明治□年十月俗名飯三郎 順三郎兄」
という記録があり、順三郎は光三の父ですから、松蔵は飯三郎の子で、笘屋間野茂兵衛の嫡孫であると思われました。
直系の子孫が他にいれば、そこには何か貴重な史料が残っているかも知れないと欲が出てきました。
新聞の死亡記事とかなにかの記録が残ってないか、N様に調査を依頼してみました。興信録から下記のような情報がみつかりました。
大正八年:間野松蔵 会社員 神戸、山本通4-1      所得税二百二十八円
同 九年:            再度筋浄水池南   所得税二百六十一円
同 十年:            再度筋33-1     所得税二百四十三円
同十四年:            山本通4-1      所得税七十八円
昭和三年:            山本通4-1      所得税七十八円
同 四年:     紐育スタンダード石油会社員 東京、芝三田綱1 所得税二百六十七円
同 六年:     紐育スタンダード石油会社員 東京、芝三田綱1 所得税三百三十四円
同 七年:     紐育スタンダード石油会社員 東京、豊多摩、渋谷、神山19 所得税三百七十四円
同 八年:     ソロコニーヴァキューム石油営業部長 東京、品川区下大崎1-86 所得税三百六十二円
同 九年:     ソロコニーヴァキューム石油営業部長 東京、品川区下大崎1-86 所得税三百九円
同 十年:                       東京、品川区下大崎1-86 所得税百八十二円
同十一年:                       東京、品川区下大崎1-86 所得税百三十九円
同十二年:                       東京、品川区下大崎1-86 所得税百四円
同十四年:                       東京、品川区下大崎1-86 所得税三百二十八円

鈴木商店は昭和二年倒産しています。昭和三~四年頃に東京に移住しているようですが、十年以降の記録を見ると、一つ前に
間野延太郎 東武鉄道地所掛長 下谷、上野花園18
と書いてあり、同じ株家の人が隣り合わせに掲載されているのが判りました。

平成十一年一月、間野B様から突然手紙が届きました。昨年末に超心寺に参ったところ、住職から私のことを聞いたとのことでした。
祖父は間野順三郎、祖母は春(又はハル)、父了、母冨美子(坂本清兵衛家から嫁ぐ)の次男です。興平さんとは親しくしていましたが、一昨年から音信が絶え息子さんに問いあわせたところ認知症のため入院中でした。今になって興平さんと吉備津神社に行かなかったことが悔やまれてなりません。・・・資料『過ぎこしやそとせ 藤井禄三翁傘寿記念』の藤井禄三氏は、文中にありますが、私の母冨美子の義兄に当たります。文中の藤井種野は、母冨美子の実母ですが、禄三氏は外村家から藤井家に養子に迎えられたとあります。・・・ついでに申しあげますと、母の実兄清雄は、生前父了との交信で吉備津、生坂行きについて述べており、コピーを添えておきます。

阪本清雄(神戸市灘区篠原本町一丁目)から間野了(大阪市阿倍野区天王寺町北一丁目)宛の葉書が同封されていました。
竜一君が運転して行ってくれるなら、今は岡山市になっているが、先祖の吉備津神社へ一緒に行ったらどうかしら。やはり吉備津社家十人衆に縁があった間野茂利治(あんたの祖父間野茂兵衛の父)=窪屋郡生坂という処(今は地名変り、墓があるかどうか、行ってないので知らぬが)へも近いはず故、行って見たら、とも思っている。(昭和四十八年二月二十七日)

例の備中吉備津神社詣でのこと、何しろ間野家と藤井家は四代も前の藤井敬助正治という人の妻「勢為」が間野家から、また、その兄の茂兵衛という人(あんたの曾祖父か)の忰が重縁になっていたり、何代も嫁したりしているが、しかし、「備中国生坂代々庄屋間野茂利治」という「生坂」が、今、何という市か町か、行って調べねばわからんので、墓がそこにあるやらこれもわからない。とも角吉備津神社へお詣りして、そこで調べてもらい、その上「生坂」へ行って見ることでしょうね。昭和四十八年五月十日


超心寺所蔵の間野家過去帳には、平八貞英の祖父母と伯父茂利次、更に、間野三五平清明妻まで記録がありますが、「生坂」という地名はありません。おそらく、他に先祖覚があるようです。
それにしても、二百年ほど前に分かれて大坂へ出た子孫が備中のルーツを捜そうと動いていたことを知り、涙するほど嬉しく思いました。

さて、パソコン通信はインターネットに替わり、「ごさんべえのページ」を開設、笘屋間野家の紹介を書いていましたところ、平成十三年八月八日、下記のようなメールが飛び込んできました。

「間野松蔵は私の曾祖父です。インドネシアに行って、石油会社をやったと聞いてます。その子謙三は私の祖父で、彼はシンガポールの会社で働いてました。曾祖父は神戸に住んでましたが、祖父は東京に移っています。」

またしてもビックリする展開となり、返信メールに、「松蔵の父は誰でしょうか?」とか、いくつかの質問を書いて送りました。
しかし、返事も待ち遠しく、どうして「ごさんべえのページ」を見つけたのだろうか?と思い、検索ページに間野松蔵、間野謙三とキーワードを入れて検索してみました。その結果、自費出版図書館に間野A様の著書「土の器(平成六年三月発行)」があり(下記)、目次の四章(夫、間野謙三との出会い)がメールの内容と付合することに気付きました。
さっそく、自費出版図書館に貸し出し依頼、八月二十二日に本が到着しました。

広島での被爆体験を中心にした自叙伝のようです。この本にも間野家の先祖についての記述がありました。
「吉備津神社の神官が、間野家の祖先だと、弟の省吾ちゃんが言っていたが、確かではない。岡山の電話帳をめくると、間野の姓が沢山並んでいるとも彼は言ったが、それも確かめていない。間野の家系は、謙三の祖父のことまでしか私は聞かされていないのだ。」

さっそく、著書の末に書かれた連絡先に電話し、A様から、長男H様の連絡先を聞いて手紙を書きました(八月二十三日)。

「長男のYが、いたずら半分に、インターネットで「間野松蔵」で検索したところ、ホームページにヒットしたのが最初でした。Yに言われて「笘屋間野家」「清水・間野家(久保屋)」「間野家-窪屋生坂村」「間野五三兵衛藤原義明」などを次々にプリントアウトし、時間を忘れて読んでいました。・・・父謙三の弟の省吾叔父から、「岡山県の吉備津神社から間野の家に養子に入ったと思われる」と、聞かされていました。省吾叔父は、生前、吉備津神社を訪ねたそうですが、何も手がかりは得られなかったそうです。私も、吉備津神社の宮司さんに宛てて、手紙を書いてみましたが、返事はいただけませんでした。お尋ねの件、祖々父の飯三郎でしょうか。(平成十三年九月十三日)」

検索エンジンの威力を知ったので、戴いた資料を元に検索してみました。
そうすると、間野松蔵の長男貞吉が全国数多くのゴルフ場設計を行ったことが判りました。
神戸一中から、大正十四年に第六高等学校(二十三回卒業生)、東京帝国大学工学部建築科卒。
耐火建築物設計を手掛け、昭和十一年設計、竣工の日本基督教団芝教会(東京都港区虎ノ門1-20-15)は戦火を免れ、今も現存しています。
戦後は大林組設計部でゴルフ場コース設計に従事、ルーツの地に近い「倉敷カントリークラブ」も彼の設計で、同ゴルフ場には彼の胸像が立っています。

こうして、生家から二百年前に分かれて大坂へ出た茂兵衛の子孫が健在で、しかも各界で活躍していることを知り、たいへん嬉しく思いました。

茂兵衛は大坂九条本田笘屋飯田久兵衛の経営する商店に勤め、後に暖簾分けを許されて笘屋の商号を名乗りました。笘屋の別家と云われています。別家(べっけ)というのは分家と同じ意味に使われることもありますが、この場合は笘屋との血縁はないようです。
茂兵衛夫婦には子がいなかったので、姉(藤井)於清の息子瓶八(平八、へいはち)を養子に迎えました。平八貞英は苗字帯刀を許され、笘屋間野家はこの二代目に大いに栄えました。 平八の実家である藤井家が、備中吉備津宮に仕えた家から出ているので、大坂間野家の先祖が吉備津の神官藤井若狭守であると云われはじめたようです。
この様に、或る代の母系先祖が、直系先祖と混線して伝えられることもあります。

改めて(藤井)於清の葬列巻物を見直してみます。

位牌持 藤屋長三郎 差添安兵衛
――
き越病身ニ付代 むめ 供下女さよ
さと
あき 供下女たけ
しま
――
相続人 十三郎事 塩屋栄助 身分モフク
――
松蔵事 笘屋瓶八 身分モフク
藤屋定次郎 カリモフク
――
間野茂利治 名代大津屋弥助
平四郎事 米屋忠兵衛 身分モフク
――
き越倅 塩屋恒松 差添幸助
左門太事 間野文太夫 名代大津屋政吉
――
藤井卯兵衛
き越倅 外松事 塩屋栄蔵
――
塩屋太助 身分モフク
塩屋平兵衛 身分モフク
――
塩屋藤七 カリモフク
塩屋新七 カリモフク
――
塩屋久七 カリモフク
塩屋兵助 カリモフク
――
塩屋源助 身分モフク
塩屋勘助 身分モフク
――
近江屋伊助
山田屋半兵衛 身分モフク
――
傳法屋覚兵衛
松屋栄助
――
川崎屋善太郎
川崎屋弥太郎
――
笘屋十平
灘屋亦七
――
豊後屋市兵衛
米屋録兵衛
――
長濱屋亦兵衛 病身に付代
日高屋善兵衛 病身に付代

位牌持は相続人のつとめのようですが、この葬列には別に相続人がいます。何れにしても故人とかなり濃い縁続きではないかと思います。
冒頭で紹介した書類の後半は、
「   大阪定安町旧半鐘ノ下 藤□
 俗名藤井定次郎死去年月不□
 間野茂利治甥ナリ是モ當家出
 テ大阪ニ行商法家タリ」
と記されています。
これは葬列の笘屋瓶八に並んでいる藤屋定次郎と考えられ、長三郎に差添(補助者)が付いていることから、長三郎は藤井定次郎の子ではないかと思います。
間野茂利治甥とあるので、於清の子かと思われましたが、カリモフク(仮喪服)を着用しているので、同姓の別の家ではないかと考えられます。
「當家出テ大阪ニ行」というのは、備中生坂の間野茂利治の家に同居していたが、その後大坂に出てという意味です。
茂利治の姉妹と思われる人の中に、友野勇右衛門国清の後々妻として亡くなった人がいます。当時、男性が再々婚ならば女性も再々婚というように婚姻回数を合わせる傾向があったようです。おそらく、友野家に嫁ぐ前に別の二家に嫁いで不縁となり、いずれかの婚家でもうけた男子を茂利治が引き取って育てたのが定次郎ではないかと考えられます。大坂に出て、叔母の嫁ぎ先である藤井家を頼り、分家して藤屋と名乗ったのではないかと思います。

「き越(きを)」は、倅が塩屋を名乗っていることから、塩屋栄助妻であろうと思います。
超心寺所蔵過去帳によると、飯瓶はこれより後の安政二年十月に亡くなっています。当時の葬列には故人より目上の者は参加しなかったそうで、巻物の最後に、
「野送り中 留主人 塩屋飯瓶」
と記されています。

過去帳に、「順三朗母 俗名里」と、「俗名川崎屋善五郎 里の実父」という記載があることから、瓶八(平八)の妻は川崎屋の娘里と判ります(姓が不明ですが、下の系図では仮に川崎氏としています)。葬列の川崎屋に並ぶ人は、これ以上に故人にとって近い親族だと考えられます。
下記系図は飯三郎のきょうだいまでは過去帳、その後は間野H氏から戴いた除籍謄本に依っています。

**

茂兵衛  ==平八貞英――+――飯三郎  ――+――松蔵  ――+――貞吉    ――+――・子
文政11   藤井氏   |  明治     |  昭和13  |  昭和54    |  中村
室      明治10  |  室      |  室中根氏  |  室櫻澤氏    |
       室川崎氏  |  室針谷氏   |        |          +――・子
             |         +――男     +――静江      |  北山
             +――他蔵     |        |  昭和5     |
             |  安政4    |        |          +――男
             |         +――秀蔵    +――直人
             +――順三郎       分家    |
             |  分家              |  
             |                  +――若子
             +――フミ              |  冨田氏妻
             |  明治26            |
             |                  +――謙三
             +――愛               |  分家
             |  明治4             |
             |                  +――アヤ
             +――島               |  大正7
             |  安政5             |  
             |                  +――省吾
             +――寿美              |
             |  安政三             |
             |                  +――紀美
             +――シメ                 マンガス氏妻
                明治19

飯三郎の長男松蔵は祖父の幼名を名乗ったのでしょう。

**

秀蔵  ――+――アイ
昭和6   |
室大瀧氏  |
      +――英吉
      |
      |
      +――エツ
      |  大正6
      |
      +――勝蔵

秀蔵は新潟県中頸城郡吉川村大字入河澤十番戸主、大瀧重作妹、亡大瀧文平チト三女、タキと婚姻して、昭和三年六月に大阪市北区中野町五丁目六十六番地に分家しています。間野光三が所有した過去帳(超心寺蔵)には秀蔵夫婦の記録までありますので、いとこ同士の付き合いがあったことが判ります。

**

謙三  ――+――M
平成4   |  佐々木
室吉田氏  |
      +――H     ――+――Y
         室中村氏    |
                 |
                 |
                 +――男

**

直人  ――男

室金倉氏

順三郎 ――+――謹一  ――竹雄  ――F
大正6   |  大正6   昭和41
阪本氏  |  室
      |  室
      |
      +――栄治
      |  広瀬家嗣
      |
      +――光三
      |  
      |
      +――了

**

光三  ――興平  ――+――K
昭和37  平成    |
室     室     |
室           |
            +――興彦
               平成14

了   ――+――龍一
昭和59  |  平成10
藤井氏  |
      +――・子
      |
      |
      +――・・子
      |
      |
      +――B   ――+――男
               |
               |
               |
               +――女



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