藤井家・塩屋
摂津国大坂堂島永来町


生家(清水家)の古文書の中に、長い巻物があります。葬儀行列の役割を記したもので、「慧嶽智観信女」という仏様を大坂の梅田墓地まで火葬に送った行列であることが判ります。
戦前は病死でもしない限り火葬にされることはなかった、という話を聞いたことがありますが、「日本葬制史(勝田至 編集 平成二十四年発行)」に、近世の大坂ではもっぱら火葬が行われ、これは江戸でも同様であり、火葬費用を負担できない貧しい人々のみが土葬にされたと書かれています。或る商人の葬列がけっこう立派なものとして紹介されていますが、「慧嶽智観信女」の葬列はこの数倍もの大規模行列であることが解ります。冒頭に、

「内より櫻橋通北に行
櫻橋渡り北詰西へ行
緑橋西へ入梅田道迄
梅田道北入
梅田墓所」

と書いてあります。現在の「桜橋」は名前のみ遺っていて、その下の川は埋め立てられています。「キタ−風土記大阪(宮本又次著 昭和三十九年)」によると、梅田墓地は梅田貨物駅の南辺にあたり、江戸時代には大坂七墓の一つとして知られていました。この地はもともと梅田宗庵という人の所有地で、田畑池沼を埋め立てたので埋田の名が起こり、更に梅田となったそうです。明治七年、大阪神戸間の鉄道竣成で梅田駅が置かれて、鉄道の裏手となり、更に、明治二十年頃の墓地整理により有縁の墓碑は各所に移転されて無縁墓のみが残ることとなりました(参考)。

「慧嶽智観信女」は何部か遺った過去帳の一部にも記録があり、天保八年五月廿七日に六十二才で大坂堂島永来町塩屋飯瓶妻として亡くなった、間野茂利治妹であることが判りました。塩屋飯瓶は、もと備中宮内(岡山市吉備津)の藤井左兵衛と名乗った人で、大坂へ出て紀州候御用商人となったとも書いてあります。
また、過去帳とは別の書類に、俗称が「於清」で、飯瓶は、もと吉備津宮の神官藤井左京と云った人で、家督を継がずに大坂に出て、與力由井一郎四郎の引き立てで紀州家の用舩掛用達に出世したとあります。大坂の郷土資料には由比一郎助という与力の記録があります。

「於清」の葬列ですが、

位牌持 藤屋長三郎 差添安兵衛
――
き越病身ニ付代 むめ 供下女さよ
さと
あき 供下女たけ
しま
――
相続人 十三郎事 塩屋栄助 身分モフク
――
松蔵事 笘屋瓶八 身分モフク
藤屋定次郎 カリモフク
――
間野茂利治 名代大津屋弥助
平四郎事 米屋忠兵衛 身分モフク
――
き越倅 塩屋恒松 差添幸助
左門太事 間野文太夫 名代大津屋政吉
――
藤井卯兵衛
き越倅 外松事 塩屋栄蔵
――
塩屋太助 身分モフク
塩屋平兵衛 身分モフク
――
塩屋藤七 カリモフク
塩屋新七 カリモフク
――
塩屋久七 カリモフク
塩屋兵助 カリモフク
――
塩屋源助 身分モフク
塩屋勘助 身分モフク
――
近江屋伊助
山田屋半兵衛 身分モフク
――
傳法屋覚兵衛
松屋栄助
――
川崎屋善太郎
川崎屋弥太郎
――
笘屋十平
灘屋亦七
――
豊後屋市兵衛
米屋録兵衛
――
長濱屋亦兵衛 病身に付代
日高屋善兵衛 病身に付代

位牌持は相続人の役割のようですが、この葬列には別に相続人が書かれています。何れにしても故人とかなり濃い縁続きではないかと思います。
清水家所蔵の書類に、
「   大阪定安町旧半鐘ノ下 藤□
 俗名藤井定次郎死去年月不□
 間野茂利治甥ナリ是モ當家出
 テ大阪ニ行商法家タリ」
と記されたものがあります。
これは葬列の笘屋瓶八に並んでいる藤屋定次郎と考えられ、長三郎に差添(補助者)が付いていることから、長三郎は藤井定次郎の子ではないかと思います。
間野茂利治甥とあるので、於清の子かと思われましたが、カリモフク(仮喪服)を着用しているので、同姓の別の家ではないかと考えられます。
「當家出テ大阪ニ行」というのは、備中生坂の間野茂利治の家に同居していたが、その後大坂に出てという意味です。
茂利治の姉妹と思われる人の中に、友野勇右衛門国清の後々妻として亡くなった人がいます。当時、男性が再々婚ならば女性も再々婚というように婚姻回数を合わせる傾向があったようです。おそらく、友野家に嫁ぐ前に別の二家に嫁いで不縁となり、いずれかの婚家でもうけた男子を茂利治が引き取って育てたのが定次郎ではないかと考えられます。大坂に出て、叔母の嫁ぎ先である藤井家を頼り、分家して藤屋と名乗ったのではないかと思います。
定安町はジョウアンマチ=常安町の誤記で、北区中之島四〜六丁目付近です。十七世紀後半に日本一の豪商として知られた淀屋岡本与三郎常安が開発した土地で、諸国の藩の蔵屋敷が建ち並んでいました。

「中之島誌」(中之島尋常小学校創立六十五周年 中之島幼稚園創立五十周年記念会 1937復刻版 臨川書店1974)の60頁に、明治八年調査の区内戸名録があり、常安町五番地の最後に「藤井定次郎」の名があります。堂島永来町は米会所のあったところで、堂島も中之島も蔵屋敷が多く、米市場があったので、藤井家は蔵屋敷や米市場に関係のある商売をしていたのではないかと思われます。

「き越(きを)」は、倅が塩屋を名乗っていることから、塩屋栄助妻であろうと思います。恒松、外松は栄助の男子と考えられます。
超心寺所蔵過去帳によると、飯瓶はこれより後の安政二年十月に亡くなっています。当時の葬列には故人より目上の者は参加しなかったそうで、巻物の最後に、
「野送り中 留主人 塩屋飯瓶」
と記されています。

超心寺所蔵間野家過去帳に、「順三朗母 俗名里」と、「俗名川崎屋善五郎 里の実父」という記載があることから、瓶八(平八)の妻は川崎屋の娘里と判ります。葬列の川崎屋の前に並ぶ人は、これ以上に故人にとって近い親族だと考えられます。

遠く離れた実家の兄、甥は名前だけ葬列に参加しています。「日本葬制史」によると、当時、葬列が次第に派手になり、華美にならないように通達が出るほどであったようです。
「身分モフク」は身分喪服、カリモフクは仮喪服、正装と略装の違いかと思います。塩屋栄助、笘屋瓶八、米屋忠兵衛の三人は於清にきわめて近い血縁であると思われます。超心寺所蔵過去帳から笘屋瓶八は茂兵衛のあとを継いだ於清の子と判りましたので、この三人ともに於清の子と思われます。忠兵衛は分家したのでしょう。

超心寺所蔵過去帳に、
「十二日、藤井若狭守藤原政安、享和二年九月、貞英実父方祖父」
が記されていますので、飯瓶の実父が藤井政安という意味のようです。

明治六年、備中吉備津宮の社家藤井正安が、士族編入申請のために小田県に提出した系図に、
「安廣 若狭 享和二年九月十二日
 正信 左兵衛 寛政六年十月二十二日
 正芳 蔵人 文政九年四月四日
 正之 數太郎 嘉永四年八月十二日
 藤井正安 印(正?)」
と記されています(旧神官歴代叙爵調書三の167頁)。

「○○守」というのは五位相当官に付けられで、江戸時代にこの名をもらったのは吉備津宮では社家頭の二軒だけです。藤井若狭守藤原政安というのは、藤井若狭藤原政安というべきでしょう。

**

飯瓶正治――+――栄助   ――+――恒松
安政2   |         |
間野氏  |  室      |
      |         +――外松
      |
      +――幾
      |  文政5
      |
      +――瓶八貞英
      |  間野家嗣
      |
      +――忠兵衛正義
         分家米屋

「慧嶽智観信女」の葬列記録と超心寺所蔵の間野家過去帳から上記のような系図が書けます。幾は、生坂清水家に所蔵する何部かの過去帳の一部と超心寺所蔵過去帳の両方に記載されています。前者には「大坂藤井氏」後者には「貞英の姉」と註記があります。

さて、瓶八貞英の曾孫B氏から戴いた「過ぎこしやそとせ 藤井禄三翁傘寿記念(昭和四十五年一月発刊)」は藤井家の相続人となった禄三翁の生涯を綴ったものですが、これによって忠兵衛正義の後が判りました。

米屋

忠兵衛正義――+――柾助
明治12   |  
室      |  
室      +――みつ
       |
       |
       +――楢鶴
       |
       |
       +――種野    ――+==禄三  ――憲一郎
       |  阪本清兵衛妻  |  外村氏
       |          |
       +――多造      |  室吉田氏
       |          |
       |          +――清雄
       +――他八子     |  阪本家嗣
                  |
                  +――富美子
                     間野了妻

禄三翁は、明治二十三(1890)年十月一日大阪市生まれで六三郎と名付けられました。父は滋賀県外村六郎兵衛(安政六年生)、母は大阪市橋本益太郎妹捨尾女(おすて、明治六年生)です。

「過ぎこしやそとせ」も提供を受けてから後に、私は吉備津神社の北・千日山で、藤井若狭とその一家の墓を見つけました。その中に、
「藤井六三郎 延享四年正月二十七日」
という墓碑があることを知って驚愕しました。

六三郎が生まれた翌年の夏、父六郎兵衛が三十二才の若さで死去し、二十三才の母捨尾は実家の勧めで再婚することになり、六三郎は藤井種野の養子となりました。
種野は藤井忠兵衛正義の第十子で、大坂安土町二丁目の薬種商、茜屋阪本清兵衛の正妻ですが、実父正義の十三人いた子女のうち、明治二十年頃には種野のきょうだいたちがみな死去したため、戦前の民法規定により藤井家の戸主とされ、藤井姓のままでした。
しかも、夫婦の間に長らく子どもが出来ませんでしたので、六三郎は橋本家と仕事の関係で昵懇(橋本家も薬種商)であった阪本家の嫁種野の養子となりました。

外村家はもと殿村と書いて、近江彦根の住人でした。分家は外村と名乗って分家するのが慣習となっていて、六郎兵衛の家も神崎郡五箇荘(ごかのしょう)村に分家して、郷士や大庄屋として続いていました。江戸末期には市郎兵衛、六兵衛、宇兵衛、與左衛門、喜兵衛、六衛など十数軒の家系があり、農業、養蚕、絹布織業、及ぶそれらを商う者、即ち江州商人として生きていました。
彦根市安養寺に遺っていた大位牌によると、殿村本家は二十二代前「花室道元禅定門」に始まり、以下、霊源道忠禅定門、寂峰圓心禅定門など十三代まで続き、十四代が「釋歓心、寛永十一年歿」。ここより禅宗から浄土真宗に改宗して、歿年が位牌に記録されています。釋顕心、釋了善、釋了真、釋了達(天保三年歿)、これら十九代までの位牌を安政六年に外村三郎兵衛(釋宗純、歿年不明)が製作奉納しています。しかし、この三郎兵衛の時、火災で全財産を失って窮乏し、子孫の六郎兵衛は明治初年に京都で宮大工の研鑽に入り、後に棟梁となり大阪へ移住しました。こうして、商売の傍ら氏神鎮守社の宮惣代を勤めた橋本益太郎と知り合って、その妹と結婚しました。

「過ぎこしやそとせ」は主に禄三翁周辺の聞き取り調査から書かれたもので、資料集めが充分ではないようです。例えば、六三郎の戸籍謄本を確認すれば容易いことなのですが、三郎兵衛と六郎兵衛の関係についても曖昧な記述です。藤井家についても、少し誤解があるようです。

藤井家は吉備津神社の祠官を数十代勤め、江戸末期の国学者本居宣長と親交のあった藤井高尚やその子で勤皇家の高雅なども輩出している。
種野は藤井若狭守正治の子忠兵衛正義の第十子、忠兵衛正義は天保年間大坂に出て殿村平右衛門の商家に奉公し、のちに別家独立して「米屋一統」の一員となった。
殿村平右衛門はもと江州で、外村六郎兵衛の本家筋にあたる。この殿村家は秀吉の時代から、既に大坂で「米屋」という豪商で、寛政年間の平右衛門は茂済(しげまさ)と号する歌人でもあり本居宣長に師事して、伊勢松坂に分家を置いていた。
忠兵衛正義はこの殿村家を中心として高田喜兵衛、増田平兵衛など七軒衆と呼ばれた米屋一統に加わり、両替、御用達として活躍したが、明治維新で諸藩に貸し付けていた金が回収不能になり「米忠」藤井忠兵衛正義は大坂東区淀川南畔の別荘(京阪電鉄天満橋ビル所)に隠居、明治十二年一月二十日に病歿した。

高雅は高尚の孫娘松野に配した養孫です。
忠兵衛正義は若狭守の子ではなく孫で、大坂に出て奉公したのは若狭守の子飯瓶です。
兎も角、飯瓶が奉公したのは大坂で屈指の豪商ですから、生坂の文書にある「もと吉備津宮神官」「紀州藩の舩掛、用達」という記述と符号します。
養子になった六三郎は誠一と名付けられて、阪本清兵衛夫婦、藤井種野の母美佐女(忠兵衛正義の未亡人)に寵愛されたとありますが、笘屋の過去帳に、
釋智法尼 嘉永五(1852)年正月二十七日 藤井忠兵衛妻 俗名ミツ
という記録がありますから、美佐は後妻ではないかと思われます。塩屋は浄土宗ですが、忠兵衛は殿村一族の浄土真宗に改宗したようです。

六三郎がもらわれて三年目(明治二十八年)に種野は男子(清雄)を生み、これが阪本家を継ぎました。さらに、明治四十二年一月種野は長女富美子を生みました、富美子は梅花女学校を卒後、母方の親族間野了と結婚して二男二女をもうけます。しかし、昭和十三年六月盲腸炎手術後に二十九才で死去しました。清兵衛は大正六年二月に七十才で病歿、種野は神戸の清雄のもとで、昭和二十五年八月に八十二才で死去しています。

六三郎は関西商工学校機械科を出て、徴兵後、伯父橋本益太郎商店(大阪市北区伊勢町)に入って従兄益一郎を助けて薬品商売を始めました。
大正五年秋には隣の吉田定蔵妹千代と婚姻しています。吉田家は明治初期から大坂堂島で米穀取引商売を始め、大正二年七月に当主定助が病歿して、未亡人ノブと長男定蔵、二男広三、一女千代が残っていました。
大正六年、六三郎は大阪市北区伊勢町二番地の妻の実家で「藤六商店(後に藤六KK)」を創業して、工業薬品や医薬原料の商取引を始めました。
義父清兵衛の縁から、味の素株式会社大阪支店に出入りし、ヨード製造の電解副産物である塩化カリなどの取り扱いをしていました。やがて「味の素」製造の副産物である澱粉を扱うようになり、やがて藤六商店は澱粉売買専門となりました。
大阪市東区京橋三丁目に自宅兼事務所の建築、茨木市奈良に工場を建設、大阪化学KKという別会社にして澱粉を主原料とする製品(糊、麺類)を造りました。

千代は昭和十八年十月十一日に三十九才で亡くなり、後妻テルを迎えています。千代が生んだ長男憲一郎は藤六KKや大阪化学の重役を勤めました。
義弟吉田広三も禄三の商売を助け、この娘敬子は石崎功に嫁いでいます。これは殿村平右衛門の米屋一統で「沢の鶴」醸造元石崎家の一族です。


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