佐藤家・米屋
都宇郡妹尾村





平成十二年八月、大村房重の叔母が嫁いでいる岡山市富原の土岐家を調査、土岐家と妹尾の佐藤M氏の家が縁戚になることを知りました。土岐様のご紹介で電話でお尋ねしてみると、その本家でM氏のいとこになる佐藤Y氏をご紹介いただきました。

Y氏は、「うちはシロサトウの分かれと聞いていて、昔は米問屋でしたが、私はそういう歴史に詳しくないので・・・」と仰り、その場で、お友達で地元の歴史に詳しいI様を呼ばれました。Y氏のお宅の家紋は「橘」で、これは盛隆寺の寺紋「井筒に橘」=日蓮宗紋を戴いたと云われます。代々の当主の名を大まかに列挙して頂きましたが、お墓まで照合するところまで行きませんでした。。

I様は、「シロサトウがいちばん古いそうですよ。これは大福方面の新田開発をやりました。かつては日清製紙の工場から妹尾駅まで(直線二キロ余)他人の土地を踏まずに歩けたと言います。新田を開いてそこに移ったのでしょう」と云われました。

本家が豪農(大地主)で分家が酒造や米問屋などの農産物を扱う商家となるというのは良くあることです。こうすれば土地分けをしなくて分家が出来ますので、本家の資産はあまり減りません。また、分家も財産に頼ってのんびり出来ませんので一生懸命働きます。本家も分家も共に栄えるわけです。
江戸時代には分地制限令という農民向け法律がありました。零細農民ばかりが増えると年貢の徴収に支障を来すと考えられたのです。

兵吉 ――+――虎松
文化4  |  享和3
室岡氏  |
     +――安兵衛 ==繁吉  ――安平  ――+――金治  ――Y
        天保11        昭和9   |  昭和51
        室     明治17  室原田氏  |  室
              室家女         |
              室           +――綾子
                             大正11

墓地は盛隆寺の本堂西にあります。妹尾佐藤宗家に近い一統が墓地を構えている場所の最も奥、新しい場所になると思います。やはり、最初に佐藤三郎兵衛家を捜そうと妹尾に乗り込んだ時、一番に目を付けた墓地の一つでしたが、吉浜屋佐藤家の紹介ページに書いているように一見して歴史を感じ取ることがなかったので、詳しく調べたのは七年も経ってからでした。

もっと古い墓碑は「享和三年、米屋虎松」これより屋号が米屋であることが判りました。次に古い墓碑が「文化四年六十才、佐藤兵吉」、従って兵吉、虎松は親子と考えられます。兵吉の妻は山田村岡惣三郎娘とあります。
安兵衛は天保十一年に五十九才で死去していますから、兵吉、安兵衛も親子となります。
繁吉夫婦の墓碑は二基あり、古い方は夫の戒名が未記入の妻だけの墓碑になっていて、新しい方には夫と先妻、後妻、三人の合祀墓になっています。古い墓碑は小型の二段石ですが、合祀墓は三段石になっています。
繁吉先妻には「長女」とあり、家付き娘の長女という意味だろうと思います。この先妻と安兵衛の生年は五十二才も離れていますので、安兵衛と繁吉の間にもう一代あるのかも知れません。
安平の隣に、「原田家先祖代々之霊」という墓碑があって、原田氏三人が合祀されています。それぞれの生存年代を計算すると、安平妻の両親と兄にあたると思われます。


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