佐藤家・吉浜屋
都宇郡大福村





佐藤三郎兵衛家は妹尾から出て大福で明治維新を迎えたらしいということまでは判っていましたので、大福の旧家のご子孫や郷土史に詳しい方から何らかの情報が得られるにちがいないと考えていました。
平成九年、大福の或る方から、昔の庄屋のご子孫ではないかという佐藤T氏を紹介していただいて電話をおかけしたことがありました。
「代々、喜平次を名乗っていて、三郎兵衛という人はいません。私は謡曲が趣味ですが、遠祖は謡曲『鉢の木』にも登場する佐野源左衛門常世と云います。時代が下り、京都の采配から逃れて備前に来て、建部、金川あたりを経て南下し、常山城の家老を勤めました。その間、建部や金川方面で分家した一族がありました。我が家の屋号は吉浜屋といいます。」

平成十二年秋、岡山市富原の土岐家の縁戚に妹尾の佐藤家があることを知り、佐藤Y氏宅をお訪ねした時、郷土史に詳しいI氏とお話する機会がありました。「妹尾ではシロサトウがいちばん古いそうです。これは大福方面の新田開発をやりました。かつては日清製紙の工場から妹尾駅までよその土地を踏まずに歩けたと言います。Y氏の家はその分家と聞いています。小学校の裏を登ったところに大きな貯水タンクがありますが、その近くの山にシロサトウの墓はあるそうです。妹尾佐藤会の佐藤S氏にもお尋ねしてみて下さい。」S氏に手紙を書いてみましたところ、シロサトウ直系のご子孫として佐藤T氏をご紹介いただきましたが、T氏は以前電話でお尋ねした方だとすぐに気付きました。しかし、前回は電話で、詳しい事情もお話し出来なかったので、平成十二年八月に資料を添えた手紙を改めてお出ししてみました。ところが今回はいつまで待ってもお返事は戴けませんでした。

I氏がシロサトウ家の墓があると教えて下さった場所にはすぐに訪ねてみましたが、佐藤姓の墓を確認しただけで、三郎兵衛という名も見当たりませんでしたので、碑文をメモすることもなく立ち去りました。

多くのお墓を見て歩いていると、一見してその家の歴史の重みや、家を受け継いできた人々の気持ちが感じ取れるようになります。「墓を見れば家が分かる」という先人の言葉は、お墓参りをこまめにやっていると何となく解るように思います。この家のお墓は、一見して墓石が新しいのがわかります。現在ではビックリするような大きなお墓ではありませんが、この大きさが四、五代以上揃っているようますので、江戸時代からかなりな資産家であったことが解ります。
一般に、江戸時代初期の墓ほど慎ましい、小振りな墓です。それは世の中全体の経済力が低かったのですから当然です。戦国時代にさかのぼると遺っているお墓はきわめて少なくなります。
先祖より立派な墓を建てるべきでないというのもよく聞く話です。先祖が苦労して建てたと思われるこぢんまりした墓を横目に、どでかい墓を建てるというのは普通の神経では出来ないことです。
ですから、歴史ある家のお墓ほど現代人の目にはお粗末に映ることになります。逆に、大きくて立派な墓碑がきれいに並んでいると、少なくとも江戸初期から連綿とつながっている家ではない、どこかの家から分れた家であることが直感的に判るようになります。

以上のようなわけで、墓地は一見しただけで三郎兵衛家のものでないと判断していました。

しかし、「妹尾・箕島のむかしをたずねて(平成八年三月三十一日 妹尾を語る会運営委員会発行)」という本に、「妹尾の白浜町に居た白佐藤は大福の葦浜屋(八浜屋)の分家で、葦浜屋の直系子孫は佐藤T氏です。その葦浜屋の本家が妹尾の紋佐藤になります」という記述と、I氏からお聞きした「シロサトウがいちばん古い」という話は矛盾するので、平成十五年三月はじめ、墓地を再確認に行きました。以前眺めた時には建っていなかった新しい墓碑に「佐藤T 平成十四年十二月歿享年八十八歳」とあり、既に亡くなられたことを知りました。手紙のお返事をいただけなかった経緯が理解できました。

墓碑を一つずつ丁寧に見て行くと、宝暦三年に死去した喜平次(**院浄△信士)夫婦の墓碑がいちばん古いことがわかります。私が求めていた歴史から見れば新しいのですが、いまから三百年近い昔に活躍した初代の墓碑が現代でも引けを取らないほどの大きさであるというのは、初代が郷土の伝説に遺るほど有能な人であったか、本家が相当の資産家であったかの何れかです。
明治二十四年四月岡山県地主録をみると、都宇郡大福村では、
佐藤喜平治 二百五円三十一銭七厘
となっていて、当時、妹尾大福方面で飛び抜けた資産家であったことが判ります。

本家が没落するに連れ、財産(土地)が分家筋に流れていく、というのはよく見る構図です。
分家する時にはある程度の土地を分けますが、初代、二代の才覚で資産を増やして行くとき、たまたま本家が左前になって行くと、本家の土地が分家に流れ込んで行きます。土地というのは信用のない間では取引がし難いものだからです。

城佐藤家は中大福新田を干拓で手に入れ、その土地で収穫したものを自分の手で売りさばくようになったのでしょう。干拓地ですから藺草でしょうか。農産物を船で売りに行った帰りの空船に商品を載せて戻り売りさばくと利益は膨らみます。一年かけてやっと収穫を迎えるという地味な農業に比べるとこの様に商売には一攫千金のうまみがありますから、次第に大きな船を用意して規模を拡大します。他藩での商売になると、藩の庇護も必要になるので、袖の下も必要だったかも知れません。ともかく農業から回船業に軸足を移したのではないでしょうか。しかし、商売は利も大きいのですがリスクも大きいので、うまく行かなくなると分家から土地担保で借金をするようになります。こうして城佐藤の土地がそのまま吉浜屋に移ったのではないかと想像しています。

喜平次――+――喜平次――喜平治――+――喜平治  ――喜平治==賢一   ――+――泰一郎
宝暦3  |  文政8  明治1  |  大正9         小林氏    |  平成14
室    |  室    室    |  室           昭和48   |  室佐藤氏
     |  室         |              室喜平治娘  |
     |            |                     +――俊介重信
     |            |                     |  昭和14
     |            |                     |
     |            |                     +――松寿郎
     |            |                        昭和47
     |            |                        室
     |            +――彌一右衛門――直
     +――某            安政5    明治7
        享和3

代々喜平次(喜平治)が続いていますが、各々の妻の出所について記録がありません。おそらく喜平次○△というように諱があるはずですが、それも彫られていません。ただ、昭和14年に早世した俊介の諱が重信とありますので、三郎兵衛家や他の妹尾佐藤一族と同じように代々の諱に「信」を付けていた可能性があります。
賢一は広島県深安郡中津原村小林家より喜平治の一人娘寿代の婿養子として入嗣していますが、この喜平治は大正九年歿の喜平治では年が合いません。寿代の父に当たる喜平治の墓碑が見当たらないので上記のようにしてみました。

謡曲の「鉢の木物語」は次のようなお話です。鎌倉幕府の執権北条時頼が旅の僧に姿を変え、寒い大雪の降る晩、ある貧しい農家で一夜の宿を頼みました。この家の主人は僧に暖をとらせるために、大切にしていた鉢の木(盆栽)まで薪にしてしまいました。主人に素性を尋ねると、「自分は鎌倉幕府の御家人佐野源左衛門常世といい、土地を横領されて没落していますが、もし鎌倉から召集がかかれば、一番に馳せ参じて奉公するつもりです」と語りました。やがて旅僧(時頼)は鎌倉に帰り、常世のことばの真偽を知りたくて、諸国の軍勢に召集をかけました。言葉の通り、常世はやせ馬に鞭打っていち早くはせ参じましたので、時頼は常世の忠節を賞し、鉢の木のもてなしの返礼に土地を与えたそうです。

盛隆寺墓地の西、小学校東の道から少し上がった所に、江戸時代の末期、佐藤から佐野へと改姓し、佐藤T氏のお話を解説しているような墓を見付けました。

妹尾の佐藤一族の系図には源義経の家来として有名な佐藤継信・佐藤忠信兄弟も登場します。佐藤姓は全国でも一、二を争う大姓ですが、平安、鎌倉という時代まで遡れば、現在の関東から東北に拡がる佐藤氏と岡山県の佐藤氏とは遺伝的共通性を持つことになるのかも知れません。


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