佐藤家・大佐藤
都宇郡妹尾村
佐藤三郎兵衛家を捜し始めて一年余、平成九年二月入手した作州安東一族の系譜の中に、「安東宗十郎娘 妹尾佐藤英麿室」という記録がありました。安東宗十郎の家には祖母の姪が嫁いでいるので、父の従兄の紹介でこの家をお訪ねしました。ところが、
「うちは江戸時代中期に備後福山から妹尾に移住して来ましたので、他の佐藤家とは別です」
とのことでした。
幕末の当主数馬忠城は妹尾戸川家の家老職を勤めていました。「大佐藤」という名からも想像できるように、明治になって殿様以下他の多くの士族が失職して郷里を離れたにも関わらず、地主としてある程度の勢力を維持していたようです。
明治二十四年四月の岡山県地主録によれば、
都宇郡妹尾村
佐藤静尾 二十二円六銭八厘
となっています。
江戸時代の武士は現代のサラリーマンと同じ、紙切れ一枚の契約で生活が支えられていました。切り捨て御免とか、士農工商と云われると、その地位や暮らしがいかにすばらしいものかと勘違いしてしまいますが、武士は食わねど・・・というのが実情をよくとらえた表現だと思います。
ですから、明治維新になっても経済力を保てたという士族は兼業士族、もともと農、商の身分でありながら蓄財を重ね、藩から借金、寄付を求められた挙げ句に、勘定奉行などに取り立てられて、金庫毎抱え込まれたという家でした。
この佐藤家も、経済の基盤は藩からの給料でなく、地主による農業経営か商売にあったと思われます。
鈴木佐藤は・・・と云われるくらい「佐藤」は日本で多い姓なのですが、福山から落下傘のように降ってきた先がたまたま佐藤姓の多い土地だったというのは余りにも出来すぎた話です。
もともと妹尾に縁故があり本拠地であったので、何らかの事情で福山を離れなければならなくなった時、脚が妹尾へと向かったというのが説明しやすいと思います。「井桁に三星」という家紋も、妹尾佐藤家の定紋と共通しています。井桁は檀那寺の盛隆寺紋(日蓮宗の紋で井桁に橘)から拝借したものかも知れません。
妹尾にある最も古い墓に眠るのが明和元年歿の忠治郎満武と享和三年に亡くなったその妻ですから、佐藤家が福山を離れなければならなくなった事情が発生したのは、福山藩主が水野家から阿部家に交代した元禄から宝永の頃とは少し後のことのようです。
忠治郎満武――+――清
明和1 | 浅野才三郎妻
室 |
+――三男子
|
|
+――常治郎忠武
| 分家
|
+――文五郎満禮――+――半左衛門忠利――+――数馬忠城 ――静尾忠節 ――+――徹朗 ――+
天保2 | 明治8 | 明治16 明治33 | 大正9 |
室 | 室佐藤氏 | 室乙部氏 室大喜多氏 | 室近藤氏 |
| | 室 | |
+――常右衛門 | +――政子 |
分家嗣 +――美江 龍治醇妻 |
森岡武従妻 |
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+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+――英麿 ――+――T
| 昭和55 |
| 室安東氏 | 室
| |
+――鎮子 +――Y
| 冨山正義妻 |
| |
+――悟朗 +――M
| |
| |
+――統雄 +――K
| 神崎家嗣
|
+――男
初代忠治郎満武の子常治郎忠武は分家して「白佐藤」と称しています。二代を文五郎満禮の子が嗣ぎますが、絶家して、祭祀を本家大佐藤が引き継いでいます。
白浜町に住んで居たので白佐藤と名乗ったようですが、大佐藤家そのものが大福へ移住した元の「シロ佐藤=三郎兵衛家」と何らかの関係がある家(分家筋?)になるからではないかと思えます。
上記のように理解不十分のまま何年か過ぎましたが、このホームページを見つけたご子孫から、
「白佐藤は大佐藤の分家です」
と指摘されました。その確認に久々に嫡孫T氏をお訪ねしたところ、
「うちの初代は佐藤忠四郎の長男が分家したという過去帳記事が見つかりました」
とのことでした。
分家(白佐藤)
常治郎忠武 ==常右衛門忠良
文政8 明治5
室 室忠武四女
**
悟朗 ――T
平成3
室
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