伊達家
岡山城下船着町



葛原匂当という盲目の箏曲家が遺した日記に、安政二年五月、及び安政三年九月に伊達羅為女、安政四年十一月、及び安政六年十月に伊達天津女の稽古に行ったことが記されています。安政元年十月十日のところには、「備前岡山丸屋(伊達家)にておりき、琴、磯千鳥、おらい同越後獅子」ともあります。羅為=禮でしょうか、共に花嫁修業の一つとして琴を習っていたものと思われます。
「岡山の町人(片山新助著)」によると、明治四年十一月、それまで藩から貰っていた扶持米存続の嘆願書を提出した諸氏中に伊達理八郎(丸屋)とあり、丸屋は藩政初期からの有力商人の一つで、正徳年中には丸屋源八郎が惣年寄(現在の市長)を勤めていたと書いてあります。このあと、新しい勢力として河本家や天野家、入江家などが出てきて、やがて国富家が台頭してきます。

倉敷市史に、河本又七郎が記した弘化年間の日記の一部(京橋掛け替え工事について)が紹介されています。
「弘化四年二月十二日、晴、昨晩(正月上京)生坂与兵衛は京都礼之介同道にて下着した、今日、右両人は忠五郎、又太郎同道にて生坂へ参る」
「三月十三日夜前、本家お金生坂より帰宅」
 お金は生坂の実家から河本へ帰宅したという意味のようですが、京都礼之介というのがよく判りません。忠五郎容軒の父公輔(會、子洲)は大歌人で、上京して九条家の執事となり、明治維新で活躍していますので、容軒兄延之(可々楼 公輔長男 文助 慶應元年六月十九日五十三才)が礼之介、即ち伊達清八郎実父(墓碑には禮之介、齢之助とあり)になるのではないかと愚考しています。

「近世岡山町人の研究」、寛文七年惣年寄に丸屋四郎右衛門、延宝五年同、宝永四年丸屋源八郎、正徳四年同、享保五年同。
三〇七頁、 慶応二年町役人等連名留(略題)
御扶持十三人 丸屋理右衛門
   六人  丸屋長三郎

長三郎好淳――+――長三郎為美――+――岩次郎
慶応2    |  明治3    |  明治1
室伊達氏   |  室天野氏   |
       |         +――長之介為承
       |            明治2
       |
       +==禮之介    ――清八郎 ――英次郎 ――淳蔵
          河本氏      大正2   昭和47     
                   室河本氏  室
          室好淳娘

「網浜・平井山墓調査下各個の墓上生院付近」に下記の墓碑銘がありますので、上記系の本家が他にあるはずです。

◎章 好章 理右衛門 剃髪休慧 書をよくし法華経二十二部写 安政元年日八十一才 室岸本蓑山の女文政十年三十九才
◎直成 三郎 平井道・の男 明治十九年六十一才(平井直純の子)
◎休意 倹 理八郎 徳共 明治六年六十三才
◎光太郎 明治三十四年
◎多造 徳卿 意徳 明治十二年四十六才
◎休次郎 大正九年
◎理八 慎喜 思之 文化二年五十三才
◎道寿 古清 元文三年八十七才
◎長右衛門道寿 貞享三年
◎好寛 魯清 父は天野道可 安永九年六十八才
◎長左衛門 道可 父は古清 宝暦十年七十五才
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