河本家・灰屋
岡山城下船着町
先祖は南朝児島高徳の後裔戦国武将宇喜多氏と云っています。5代一阿の墓誌には、本姓は「三宅」で、宇喜多和泉守能家10世孫と堂々と彫られています。直家には家臣として仕えたそうです。
藩庁にその出目を報告した「奉公書」によれば、親平(慶長2年生)が上道郡楢原村に潜んで家来に養育されて成長し、家来と共に岡山城下に移り住んで商売を始めたとなっています。
初代は五郎右衛門常平となっていて、慶長15(1610)年生〜延宝3(1675)年歿となっていますので、親平と常平は兄弟か従兄弟、或いはもっと離れた親族関係になるのかも知れません。
常平の親か祖父くらいの人の話だろうと思いますが、関ヶ原の敗戦(慶長5=1600年)の後、大坂にとどまって土木請負業を始めて財をなしたと云います。
常平は大坂の豪商淀屋辰五郎介庵と仲が良く、そういう人脈を買われてか備前池田家の経済顧問として迎えられています。50才で高野山に入っていますので、墓もそこにあるそうです。
2代定平の代に船着町に居を構えています。屋号を灰屋ということから、現代流に云うと化学工業を始めたのかも知れません。この人は俳諧でも名をなしますが、親と同じように50才で出奔して高野山に入りました。
3代勝平(季文、一居)は京都三条衣柵、函館松前、福岡博多に支店を置き、東久世公の仲介で禁裏(現在の宮内庁)御用達となって全国規模の商売を行っています。これは、甥に身代を任せて自ら全国行脚に出、各地の作物の作柄などの情報を知らせては、思惑買いを指令したようです。
これには殿様の後ろ盾があったと思われ、その死後、遺言として莫大な金品を献納しています。現代流に云うと政官業の癒着です。現代の政治社会の構図の源はほとんど江戸時代に求めることが出来ます。世界を相手に大戦争をして、さんざんな目にあったあと米国に西洋流の民主主義をぶつけられても、そう簡単に人の心根は変わらないものなのです。
小泉首相人気で、世の中みんな改革を叫んでいます。でも、ホントウに改革をみな望んでいるのでしょうか。変わったようで実はあまり変わらない、日本人はこういうものを求めているように思います。
勝平は餓鬼草紙他の名品を手に入れて道具長者といわれました。飢餓草紙は戦後東京国立博物館に収蔵されて国宝に指定されています。この背景にある彼の哲学が面白いので紹介します。
「子孫に無駄な富を遺してはいけない。生活が贅沢になり、身代を滅ぼすことになる。自分は余財を書画骨董の購入に宛てる。それも直ぐには金に換わらないような、国家のために保存しなければならないような重要なものを買う。世間では、『河本は貧乏人にあまり施しをせず、道具ばかり買っている』と悪口を云うが、他人の恵みを甘んじて受けるようでは立派な人間にはなれない。栄枯盛衰は世の習い、失意の時に立ち上がるのが人間の面白いところで、その価値も決まる。だから河本は世間並み以上の施しはしない。もし政治の不都合で困る人が出るならば、余裕のある者達が金銭を出し合って藩(=政府)に奉納し、政治の力で困っている人を救うのが当たり前だ」
勝平の死後行われた藩への金品の献納はこの最後の言葉を実行したものとも思われます。
3代が猛烈に仕事をして家産が増えたので、4代又七郎(巣居、質、商量)以降はその財を使って文化活動に力を入れるようになります。この人は勝平から一度離縁されています。「全財産を傾けて菜種油の買い占めをやれ」という命令に対して、庶民の迷惑を考えて控え目に買ったのを叱責されたそうです。似たような話は倉敷の大原壮平と孝四郎親子(これも養父と養子の関係)にもあります。
養父の教育のせいか、巣居もまた全国行脚に出ます。この人はその行程を細かく記したので、後に地理学者として注目されることになりました。
巣居は親の遺産と家業は大切にして、質素倹約に勤めました。この代から岡山城下町の惣年寄筆頭となり、苗字帯刀を許可されています。しかし、その衣服には絹を用いず、
「河本の檳榔子(びんろうじ)=檳榔樹で染めた黒の木綿羽織」
という言葉が出来ました。財産も地位もある人が、いつも色あせた木綿の羽織を着ているという、風体を構わない人を指す岡山言葉で、戦前まで遺っていたそうです。巣居もその死後、藩にたくさんの金品を献納しています。
倉敷町の新禄豪商植田家が、代官退任時に多くの金品を贈ったという話がありますが、これらの話は何れも賄賂を巧く誤魔化すやり方だと思います。昔も今も賄賂は変わらないのですが、今は、「貴方が辞めるときには・・・」、「私が亡くなったら・・・」などと悠長なことが言える時代でないのか、どうしても無理なことをして司直の手を煩わすようで困ります。
巣居の妻は旧宇喜多家家臣遠藤河内守7世孫治兵衛勝次の娘です。
5代一阿(居、又七郎、定夫)は茶人、6代立軒(子恭、望之、又七郎)は「経宜(けいぎ)堂」を設立、7代公唯(軒、又七郎)は蘭学者、陰りの出た身代の立て直しを断行しました。8代容軒(公供、琴洲)は画家として有名です。
経宜堂とは図書館と学校を兼ねたようなもので、河本家が収集した総計4573部、約3万2千冊の本を管理しました。
8代を相続しなかった公輔(會、子洲)は大歌人で、上京して九条家の執事となり、明治維新で活躍しています。
9代又七郎(黙軒、公森)は惣年寄から市井長となり、明治の変革期の岡山市政に貢献しました。この人は天野公敬の長子で、母は野田亀五郎の次女ですから、間野與平とは従兄弟どうしになります。容軒の妻金(かね、兼 幼名志那)は與平の姉で、容軒の妹杣は與平の妻となっています。つまり、姉妹どうしの遣り取り、たいへん複雑な縁戚関係になっています。
10代乙五郎は、安部磯雄が岡山教会の牧師をしていた頃に入信、岡山日曜学校校長を務めました。
五郎右衛門常平――五郎右衛門定平――+――又七郎勝平==巣居 ――+―― 一阿 ――+――立軒 ――――+ 延宝3 元禄7 | 延享4 天野氏 | 寛政8 | 文化6 | 室小橋氏 | 安永4 | 室天野氏 | 室天野氏 | +――女 室遠藤氏 | | | 天野道順妻 +――女 +――七五郎撲軒 | 天野喜之妻 安永8 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――文太郎公輔――+――延之 | 天保3 | 慶應1 | | | +――忠五郎容軒――+==又七郎公森――+==茂四郎 ――+――歌子 | | 明治12 | 天野氏 | 藤井氏 | 明治28 | | 室間野氏 | 明治9 | 大正6 | | | | 室河本氏 | 室公森長女 +――勇子 | | | | | | | +――女 | +――左馬子 | +――杣 天野公遵妻 | 那須仙三郎妻 | 間野克明妻 | | +――乙五郎公和 ――太仁治 +――公唯 | 昭和19 | 天保13 | 室 室 | 室小野氏 | | +――安 +――七五郎公遠 伊達清八郎妻 | 安政6 | +――又八郎 | 天野家嗣 | +==公誠 平岡氏 文化3 室家女
倉敷市史第9冊437頁に、河本又七郎が記した弘化年間の日記の一部(京橋掛け替え工事について)が紹介されています。
「弘化4年2月12日、晴、昨晩(正月上京)生坂与兵衛は京都礼之介同道にて下着した、今日、右両人は忠五郎、又太郎同道にて生坂へ参る」
「3月13日夜前、本家お金生坂より帰宅」
お金は生坂の実家から河本へ帰宅したという意味のようです。京都礼之介というのがよく判りませんが、伊達清八郎の実父が禮之介、齢之助とありますので、容軒兄延之(可々楼 公輔長男 文助 慶應元年歿五十三才)のことではないかと愚考しています。
茂四郎(号梅軒 嘉永六年生)は備後國三良坂の今津屋藤井氏で、親戚の真安家に入り、明治十年に又七郎長女磯子と結婚して相続しています。明治二十年には岡山キリスト教会に入り、石井十次創立の岡山孤児院で働いています。
江戸時代後半から明治に至るまで、岡山城下では一番繁盛した商家の1つですが、現在、お墓は下写真のように荒れ果てています。おそらく祭祀を引き継ぐべき人が居ないのかも知れません。
端に一塊に寄せられた墓碑があります。これは一阿の義弟喜之の弟道円が河本氏を名乗って分家した流れのようです。
道清――友心――永平道円――修平道侃――+――五郎左衛門將與 享保7 延享2 天野氏 文化1 | 明治16 室 室 明和4 室水澤氏 | 室 | +――僊三 安原家嗣
上記は、一阿の義弟喜之の弟道円が河本氏を名乗って分家した流れのようです。
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