五流尊龍院宮家
児島郡林村
奈良時代、役小角(えんのおずぬ)が修験道を開きますが、民衆を惑わすということで伊豆に流されます。この時に、弟子たちが紀州熊野権現の新体をこの地に奉斉したのが児島五流(尊龍院、太法院、建徳院、報徳院、伝報院)、児島修験の起源となったそうです。承久年中、後鳥羽天皇の皇子覚仁法親王は新熊野検校に任じられ、この尊龍院に住んでいました。承久の乱がおこり、兄頼仁親王が尊龍院に流されて、この地で死去します(宝治元年歿、墓地は木見にあります)。頼仁親王の子道乗僧正は子がなかった叔父覚仁法親王の跡を継いで、尊龍院大僧正になります。その子澄意、頼宴、親兼、隆禅、澄有、昌範はそれぞれ、児島五流を継いで、その子孫は代々宮家姓を名乗ったそうです。現在は、そのうち尊龍院だけが頼仁親王の血脈を受け継いでいると云います。
後鳥羽天皇――+――覚仁親王 | +――頼仁親王――道乗大僧正――+――澄意権僧正 宝治1 室藤原氏 | 室藤原氏 +――頼宴大僧正――+――宴深僧正――・・・ | 室児島氏 | | +――範重 +――親兼権僧正 | | 伝報院祖 +――高徳 | | +――隆禅権僧正 +――女 | 太法院祖 藤原氏嫁 | +――澄有大僧都 | 報恩院祖 | +――昌範僧正 建徳院祖
頼宴大僧正の三男高徳は外祖父三宅範長の嗣となりました。尊龍院には児島高徳誕生之地という碑が建てられています。その左に頼仁親王歌碑があり、「この里にわれ幾年か過してむ乳木の煙朝夕にして」高徳は南朝に味方して活躍し、「太平記」の作者としても知られています。宴深僧正のあとが下に続くようです。
玄興 ――覚道 ――+――風 宝暦6 寛政5 | 鞭木満喬妻 室渡辺氏 室山西氏 | +――玄鑑 ――+――抽興 ――+――元興 ――+――周興 文化3 | 嘉永5 | 文久2 | 吉祥院嗣 室瀧波氏 | 室大橋氏 | 室大橋氏 | | | +――隆興 ――+――晋 ――+ +――時之進 +――愛 | 明治40 | 享和2 大石義桓妻 室大橋氏 | 室近藤氏 | | | +――高之 | | 大橋家嗣 | | | +――登 | | 幡中家嗣 | | | +――了 | | 大谷家嗣 | | | +――歳枝 | 佐伯勉妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――楠野 | 明治39 | +――松枝 | 渡邉頼母妻 | +――寿子 | 昭和42 | +==教譽 ――+――澄子 | 幡中氏 | 三宅家嫁 | 平成3 | | 室晋四女 +――悦子 | | 松井家嫁 +――静子 | | +――恵美子 +――貞子 | 三宅家嫁 | 某氏妻 | | +==準 +――繁野 | 藤井氏 古市昂妻 | +==義明 清水氏 昭和59 室貢四女
現代に続く宮家の墓地には、崩れて銘を読むどころではないようないくつかのお墓がありますが、碑銘を確認出来る最も古い玄興の墓には「五流正統長床宿老大先達尊龍院中興第二十九世」とあります。
鞭木満喬妻は「満喬後室風 尊龍院宮家氏寛政七年歿年六十六」と、玄鑑の生存年「文化三年遷化六十八才」を比較して挿入しました。
抽興から四代に亘って倉敷の豪商中島屋大橋家一族との縁組みが続きます。抽興室直は本家平右衛門綱直の娘、元興室利世は川入村の分家善三郎の長女、隆興室冬は本家平蔵正直の娘、その次男高之が東大橋家に婿養子として入っています。
抽興の娘愛は備中松山板倉候客士大石織之輔義桓の妻となり、文政五年に二十四才の若さで亡くなっています。遠く離れた土地で早世した娘を哀れんだためでしょうか、実家に墓碑が建てられています。元興の嫡男周興も塩飽島吉祥院玄信の死後、跡継がなかったのでその跡を嗣いだと碑文に彫られています。この人も文久二年に三十四才の若さでなくなっています。江戸時代には、前記の五院に塩飽本島の吉祥院を加えて五流の六院として結束していたようです。
ホームページへ