室(むろ)家
英賀郡中津井村
徳川8代将軍吉宗の侍講を勤めた室鳩巣という学者をご存知でしょうか。高校の日本史の教科書にも登場する有名人ですが、備中のこの家から出ていることをご存知の方は少ないのではないでしょうか。
「姓氏家系辞書」によると、室氏は平家物語で有名な熊谷次郎直実の後胤で、備中蟹川「室」に住んで「室」を名乗ったとあります。
建久年中、梶原平三景時が作州の目代に任命されたとき、熊谷次郎直実の次男小太郎直秀が梶原景時の補佐役として派遣されました。当時の備中英賀郡には民衆を悩ます悪党がいて、これを退治するようにという命が直秀に下り、直秀は蟹川「室」に陣を構えました。悪党は直秀によってすぐに退治され、後に景時が鎌倉に戻ってこの話を頼朝にしたところ、頼朝は直秀の武勇を褒め、英賀郡一帯を直秀に与えて永住させることになりました。
熊谷 直実――直秀――+――直一 | 室氏(室) | +――直廉 | 津々氏(津々) | +――直玄 | 平田氏(水田) | +――直峯 植木氏(砦部)
この様に、室氏は鎌倉時代からこの地に住んでいるわけですが、室町、戦国時代はそれぞれ近隣の有力な武将の配下となって生き抜いてきたようで、補遺室鳩巣文集11にも「高祖、曽祖、祖父、相次いで尼子に仕え、後宇喜多に仕える」と書いてあります。
江戸時代になると中津井字町で酒造、商業などを行っていたようですが、延享年中、伊勢国亀山藩石川家が中津井に陣屋を置く時、室家はその邸宅を代官に譲って、陣屋と道を隔てた向こう隣に新たに邸を構え、御用商人、藩役人、庄屋として近隣13ヶ村の庶民と武家支配勢力の間を取り持ちました。そういうことから、地元では「大室」と呼ばれて尊敬されていました。
鳩巣の父玄樸は元和2年に中津井に生まれますが、後に郷里を出て、大坂、江戸へと移住して医者として生計を立てていたようです。鳩巣はその長男として万治元年江戸谷中に生まれています。
玄樸――鳩巣直清――忠三郎洪謨――孫太郎直温
天和3 享保19
姓氏家系辞書の記述によると、上記のようになります。しかし、直温は明治17年75歳で亡くなっています。墓碑を元にして並べてみると、
藤蔵直住――+==三郎右衛門義陳――元右衛門直道――+――田夫曹直温――+――深直亮 ――+――みどり1867 寛政7 | 綱嶋氏 天保3 | 明治17 | 大正3 | 大江氏嫁後 | 享和1 室波多野氏 | 室 | 室室氏 | 西江義彰妻 | 室直住娘 | 室 | | | | +――嘉那 +――いくよ1870 +==新五兵衛直雄 +――直裕 | 和栗仁左衛門妻 | 西江義彰妻 齋藤氏 和栗家嗣 | | 文政1 +――又四郎 +――政代1875B 室直住娘 | 大橋家嗣 | 江田・妻後 | | 細川氏妻後 +――友尾 | 西江義彰妻 | | | +――房恵 +――女 | 武藤三郎米妻1877 | 近藤家嫁 | | +――吉方E +――女 | 直原佐平妻 渾大防家へ? | +――源三郎 | 大正8 | +――薫 ――+ 昭和18 | 室 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==淳義則 ――+――清 西江氏 | 昭和33 | 室橋本氏 +――満 | | +――湛
大室家の墓地を隈無く捜しましたが、直住より先代の墓碑は見あたりません。直住の戒名は「○○玄忠」とあり、玄樸の「玄」と忠三郎の「忠」の合体のように見えますから、洪謨のことかも知れません。鳩巣の歿年享保19年と寛政7年とではずいぶん隔たりがあるようですが、享和元年に亡くなってる養子の義陳の享年が62歳ということからみても、直住はずいぶん長寿を保った人のようですから、年代的には、玄樸、鳩巣直清、藤蔵直住、三郎右衛門義陳というふうに続けても良いように思います。それにしても、将軍の侍講まで勤めた人の子がどうしてまた帰郷したのか、2代も郷里を離れていた間の家政はどうしていたのかなど疑問も多々あります。
この家は鳩巣というたいへんな有名人が出た家だから「姓氏家系辞書」にその系譜が紹介されているのです。一般の家庭に生まれた人が、家系図を調べようとして、いきなりこういう本を開いても何も得られないどころか、下手をするといっぺんに家系調べの興味を失いかねません。いろいろなページで書いているように、家系調べは親から祖父母からと、足下から順次調べて行かないといけません。
深直亮の妻は分家から入っています。
碩二直節――+――静 明治19 | 勝田家嫁 室小野氏 | +――栄 | 室深妻 | +――京 | 池田家嫁 | +――寿太郎 | | +――恭治直立――文治――泰治 | 大正5 | 室菊井氏 | +――格二 | | +――半四郎 | | +――節 | 治部寿太郎妻 | +――常 藤井義豊妻
直節が本家系図のどこにつながるのかよく判りませんが、直節の戒名は「○○院○○仁昌居士」とあり、本家当主となった兄弟と同じ院居士号というのはおかしいので、その傍らの修平直方(安政6歿、○○良俊居士)くらいから分家しているのではないか、即ち、直方は直道の弟くらいになるのではないかと思います。
大室氏の墓地には上記の他にも年代が重複する墓碑が多数あります。それらを並べてみます。
室預十郎、明治18、55歳
同妻、安政6
室源三郎直明、大正8、36歳
室才兵衛直友、文政6
同妻、寛政3
室勝五郎、寛政7
室藤一郎、享和3
室六右衛門直之、文政5
同妻、天保2
室博平、明治30、63歳
また、親類縁者の墓碑もいくつかみられます。
和栗ヒサシ、明治25、16歳
和栗竹、明治27、20歳
この両人は倉敷の板屋和栗家に嫁いだ直温娘の子供達のようです。
直道妻仲の両親の墓碑には長い碑文が彫ってありました。仲の父は備前池田家臣波多野佐仲景充の次子で、同藩大野紋左衛門養子となり、下道郡岡田藩家臣安田一学久則の次女元子を娶り、二男一女をもうけたようです。二男は早世したので、夫婦は大野家を去って、晩年長女の嫁ぎ先の安田家に寄寓したようです。この安田一学という人は、池田岡右衛門正房とともに新本義民騒動(一揆)の時の岡田藩側の責任者となっています。
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