佐藤家
児島郡下村





下村の名主を勤めていました。墓地は渾大防笹井家の墓地のある久保山の登り口にありますので、両家の墓地を調べに行く途中で、その古くて立派な墓碑群が気になっていました。享保7年と彫られた墓碑から確認できますが、戒名も俗名も判りません。

某――――五郎左衛門尉――久五郎――友七保行――+――五郎左衛門保忠――+――九八郎千秋
享保7  元文3     明和8  寛政6   |  文政12     |  文政12
                        |  室山本氏     |
                        |           +==順平直躬――友太郎保忠――+
                        +――辨五郎         笹井氏   明治17   |
                                       弘化4   室三宅氏   |
                                       室保忠娘         |
                                                    |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――久太郎保慎==鼎吉保孝――+――男
|  明治12   真安氏   |  室三木氏
|  室和田氏   昭和12  |
|         室保慎娘  +――男
+――女      室山路氏     室久山
   笹井孝誠妻

千秋は上京し、近衛殿に仕え、主馬の名をもらっています。在京中に和歌を勉強し、30歳を過ぎてから帰郷しています。野崎武左衛門が野崎浜塩田築造に際して彼に相談していますし、高田京之助などと協力し、高田新開(中桝)を、義弟順平らと協力して西桝塩田を築造しています。彼は生涯独身を通し、妹に同村の笹井家から養子順平を迎えて家を継がせせいます。
順平は文政12年に海岸の埋め立てを出願し、天保3年に下村川の西に和井田前塩田(西桝)を完成させています。この広さは4町6反余です。

順平の孫保慎は明治11年に下村戸長に就任し、伝染病の防疫作業中に殉職しています。彼の妻小瀧(こたき)は安政2年に備中国都宇郡妹尾村(岡山市)和田浄の長女として生まれています。夫と死別後、家産の維持管理に努めましたが、昭和9年に祖先から受け継いだ塩田家屋などを公共のために寄附し、財団法人佐藤龍水会が設立されました。

保慎と小瀧の娘静子は小田郡小田村の真安鼎吉を養子に迎えますが、静子の方が早くなくなり、鼎吉は備後尾道備前屋山路家から後妻を迎えて2男をもうけています。従って、この代から下村佐藤家直系の血脈は絶えています。


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