秋庭家
窪屋郡浅原村





承久の頃備中松山城主だった秋庭氏の子孫です。
高橋氏の4代23年間と高氏の7年間を挟んで、秋庭氏は仁治1年から永正6年までの長期に渡って城主の地位にありました。もとは三浦氏と云い、初代の三郎重信は鎌倉幕府から有漢(うかん)郷を与えられて下向しています。この時はじめて臥牛山に城を構えています。建武以前の城主秋庭氏は

三郎重信――又四郎信村――平六重連――小三郎義継――三郎重知

建武以後は、

三郎信盛――三郎重明――八郎頼重――平之允頼次――備中守元明――七郎重継――備中守元重――

浅原秋庭氏は備中松山城落城により、上房郡有漢村に仮住まいした後、秋庭七兵衛が元亀元年に備中窪屋郡浅原村にやってきて庄屋を勤めました。七兵衛のあとを嗣いだ又四郎(宇野又左衛門の子、後猶七兵衛)は、天正1年から元和年中まで50年くらい庄屋を勤めています。猶七兵衛の子長兵衛は寛永年中から寛文年中まで50年庄屋役を勤めています。次の長兵衛は享保15年から宝暦8年まで29年間五人組頭を勤めています。
この家から正保年中に長介(後に猶七兵衛)という人が分家し、その人の後妻が生坂村間野源左衛門娘となっていますので、秋庭家の調査をしました。

猶七兵衛  ――五左衛門  ――惣吉盛光 ==善太夫盛吉――+――治左衛門吉治――+――後左衛門重寿――+――五一兵衛重命――+
        元文4     延享31690  守屋氏1710  |  文政41741   |  文化91771   |  安政7年1790  |
室               室守屋氏   安永3    |  室守屋氏1744  |  室中嶋氏1771  |  室鎌田氏1797  |
室間野氏                   室友野氏1722 |  室中嶋氏1748  |  室昆陽野氏1773 |          |
                              |          |          +――寛左衛門重允  |
                              +――松       +――渡世      |  分家      |
                              |  中原定常妻      中原子敬妻   |          |
                              |                     +――女       |
                              +――戸羽                    目黒篤親妻   |
                                 大橋重朝妻                         |
                                                               |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――治左衛門重治==   重勝――+―― 一太1873――寿夫
|  明治71814   重信長男   |         大正4
|  室鎌田氏    明治371850 |   室原田
|          室鳥羽氏1856 |
+――利久1817           +――章男1884
|  文政8               明治41

+――寛左衛門1822
|  入江家養子

+――庫介1825
|  文政9

+――志賀之助1827
|  小山家嗣

+――七郎重幸
   安政41831

猶七兵衛の妻は下道郡山田村与一郎娘とありますから、菊池氏かも知れません。
惣吉妻は「守屋氏・・・」としか判読できませんが、善太夫盛吉が「三田村守屋鉄次郎弟当里秋庭家相続二十九年僅寿・・・嗣跡子治左衛門吉治謹誌」とありますので、同じ家と判断しました。その妻於市も友野氏としか判りません。
惣吉、善太夫、治左衛門吉治と五人組頭を勤めていますが、吉治は寛政五年に五人組頭から名主に転役して文化八年まで勤めます。吉治の妻於鶴も守屋氏とだけ、後妻筆は岡田家中嶋丹治娘となっています。。
後左衛門重寿の妻遊歌は岡山橋本町櫻屋中嶋平左衛門著氏娘、後妻は児島郡味野村昆陽文太夫娘です。
重壽も寛政五年から文化九年まで五人組頭を勤め、その子五一兵衛重命は文化八年から隣村の子位庄名主となり、八ヶ郷用水問題の解決で名を上げ、安政年中に十六ヶ村の大庄屋となっています。浅原村の用水池であった明見谷池、東池の補修と新たに以弥谷に新池を造ったことでも有名です。
重命は妻照(児島郡上村鎌田重郎右衛門正房娘)との間に四男があり、長男治左衛門重治があとを嗣ぎ、次男寛左衛門は日羽村入江氏の嗣となり、三男志賀之介は大供村小山家を嗣いでいます。四男七郎は若くして亡くなりました。
七郎の墓誌に「君姓平」と平氏であると書いています。隣の子位庄村里正となり、出張中でしょうか、摂州能勢郡山田妙見山萬屋彌蔵の宿に於いて病歿し、同山北東方三丁ほどのところに葬られて法華宗同郡野間村圓株寺で引導、法号をを授與されました。
治左衛門重治の妻代野は児島郡上村鎌田弥太郎正信娘、二代にわたる重縁です。
重勝は重信長男で、その妻は賀陽郡足守村鳥羽栄作の次女です。
一太の妻「つね」は浅口郡柳井原村原田慎四郎長女(明治六年生)で後に離縁、寿夫が二十一歳という若さで亡くなったのを最後に絶家しました。

五一兵衛の弟寛左衛門のあとは次のようになりますが、重篤の次代が夫婦養子となって血脈は絶えました。

三浦      秋庭
寛左衛門重允――  重信――+――  重勝
鎌田氏    明治351828|  本家嗣
              |
              +――嘉太郎
              |  大正91860
              |  室藤田氏1871
              |  室近藤氏1877
              |
              +――二郎重篤  ――+――女
                 昭和221883  |
                 室近藤氏1883  |
                         +――女1913
                         |  昭和16
                         |
                         +==淳三

墓碑に「三浦寛左衛門平重允夫婦」とあり、故あって三浦姓を名乗っています。妻秀は備前児島下村鎌田重右衛門正利娘です。
嘉太郎は重信次男で、郡会議員を勤めています。その妻澤は賀陽郡高松村藤田才八郎儀光次女ですが、この藤田氏というのは大崎石原家と縁故の家ではないかと思います。後妻數兄は倉敷市東富井近藤大三郎長女です。
二郎重篤は二十三代とあり、鎌倉幕府から有漢(うかん)郷を与えられて下向した三郎重信から数えているようです。その妻秀は倉敷市東富井近藤大三郎次女とあり、ここにも重縁があります。大三郎は二代に亘る襲名ではないかと思います。


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