石原家
賀陽郡大崎村
西花尻太田家のご子孫から平成五年五月初旬にたくさんの関係資料をご恵送いただきましたが、その中に大崎石原家の系図が含まれていました。この系図には一部に歿年と享年戒名の記載がありますが、多くは人名とお互いの関係を言葉で記述したものにとどまり、読めば読むほど頭が混乱してゆくものでした。それを何とか自分なりに解きほぐし、まとめたものをもとにして原稿を作成、ホームページ上で公開していました。
平成十四年八月、猛暑の中、久しぶりに大崎を訪ねました。公会堂の裏にひっそりと建っていた生石六兵衛の墓碑は草に覆われていました。田舎で、猛暑ですからほとんど人の往来はありません。たまたま畑仕事をされていたご婦人(六十代位?)に庄屋の石原家墓地をお尋ねすると、「あそこの畑の中にあるのがそうで、時々見に来られる方があります」とのことでした。訪ねてみると、これは戦国時代に届きそうな古い先祖墓で、文字が刻まれた近世の墓はありませんでした。
自転車で帰宅中の年輩の方にやっと出会い、石原庄屋の墓地を訪ねると、「居宅はあそこにありました。お墓はよく判らないが、この上にお寺(遍照禅寺)があるからそこに行ってみなさい」ということでした。
寺の上に墓があり、上がって頂上までぐるりと廻ってみましたが、石原姓の墓地がありません。他の場所を当たってみようと降りかけたとき、どこかでみたような家紋に目が止まりました。「藤巴」という変わった紋が、「藤田家之墓」という累代墓に彫られていました。「あっ!これは石原家の紋と一緒だ」と気づいて、その周辺にある墓碑を片っ端から見て回りました。そうすると、中に石原某という墓碑が混ざっていて、しかもそれらはどれも立派な墓碑ばかりです。系図と照合してみると、たしかに石原庄屋の墓です。しかし、江戸中期の墓碑ばかりで、それ以降明治までの墓碑は見あたりません。とにかく石原家のものと確認できたものを筆記して降りました。
寺の下で農作業中のおじさんに会ってお話をお聞きすることができました。「ああ、あそこは庄屋石原家の墓地ですよ、どうして藤田さんがお墓を建てているのか判りません。庄屋の墓地は、地図がありますか、えーと、この辺りになります。」
「やっと見つかった」と思いながらも、その日は暑さと蚊の猛攻に疲れ果てて後日の調査としました。
ということで、以前ウェッブで紹介していた系図にはずいぶん間違いが見つかりましたので、書き換えることにしました。
太田様を通じて戴いた系図はとても難解です。納所家のページ冒頭で述べているような次第で、おそらく何代にも渡って書き直しをしているうちに、記録されている人同士を結ぶ線が混乱してしまっているようです。おまけに生存年代が付記されていない人がありますので、墓碑のような他の史料を付き合わせると少し縺れた糸が解けて見やすくなります。戦国時代以前の系図ではまずこういう検証作業が出来ませんから、いくら立派に装丁された系図でも物語本とそんなに違いがないわけです。
入道円心は赤松一族でもっともよく知られた人だろうと思いますが、この円心の孫の一人に三河守時則という人がいて、この人が播州多賀郡石原へ住んで石原と改姓したのがこの家の歴史の始まりです。家紋は「藤巴」という藤の花を三つ巴形に巻いたちょっと贅沢でおしゃれな紋です。
系図によると、時則は故あって播州から備前に移り、村上伊豫守に仕えましたが、宇喜多家の勢力が拡大したために備前鍋谷に蟄居しました。「村上」伊豫守は「浦上」伊豫守の間違いではなかろうかと思いますが、公開されている浦上家系図には伊豫守という記載が見つかりません。
その後、時則の子孫太郎則俊は花房志摩守の推薦によって宇喜多秀家に仕官することができたようです。つまり、親が勤務していた浦上(村上?)組をつぶした宇喜多組に、子はまたべつのコネを使って就職がかなったわけです。しかし、この宇喜多組も長く続くことなく潰れてしまいました。則俊も慶長五年の関ヶ原の戦で討死してしまいます。
遺された妻は鍋谷の住人片山宗兵衛の世話になっていましたが、備前国内での宇喜多家の浪人探索が厳しくなったので、子の新吾(後の加左衛門光延)を連れて備中の中尾三郎左衛門を頼ろうとしたそうです。中尾三郎左衛門が実は生石中務のこと、つまり改名していたわけで、生石帯刀と孫太郎則俊が相婿だったので帯刀は大崎村に住んでいたようです。もっとも帯刀は文禄元年の秀吉公朝鮮征伐の時、壱岐勝本で病死していて、兄中務も改易されていますので、則俊妻は帯刀の叔父生石六兵衛を頼ったようです。
続いて、「村の年寄りが云うには」とあって、系図に次のような話が書いてあります。
『大崎村には紀州神宮の浪人石原助右衛門、弥次兵衛という兄弟が住んでいました。兄助右衛門は延原土佐の推薦で鍛冶山に籠城、同城落城の後に花房家に仕えました。弟弥次兵衛は成羽の三村紀伊守に仕え、三村元親没落後に浪人して大崎村に帰って住んでいました。そこへ孫太郎則俊の妻(系図には後妻とあるのが意味不明)がやってきたので、弥次兵衛と夫婦になり、日近村に居た助右衛門の所へ弥次兵衛、則俊妻、則俊遺児新吾三人が移り住みました。その後、弥次兵衛夫婦に加吉(後改喜右衛門)という子が生まれました。』
生石帯刀という清水家の先祖とある時期に緊密に行動を共にした人が出ていますので、この記述は何度も何度も読み返しました。下記はこれを整理して並べた関係図です。
赤松後石原 三河守時則――孫太郎則俊 慶長5 ‖ +――加左衛門光延 ――+――治右衛門 ‖ 延宝4 | 享保17 ‖ 室生石新兵衛娘 | ‖ 室岩崎氏 +――利兵衛光利 ―― ‖ 延享1 ‖ 室中田氏 ‖ +――女 +――喜兵衛 | ‖ | | +――+――喜右衛門 | ‖ ‖ | 弥次兵衛 +――了伯――新左衛門――+――十郎兵衛 門前居住後冒姓遠藤 | ‖ | +――女 吉村平左衛門娘 +――治介 総社祢屋に養子に行 生石 ‖ | +――佐渡――+――帯刀治勝 +――女 伊木内記妾 | | 文禄1 | | | +――中務治家 | 改中尾三郎左衛門 | 寛永5 | 生石 +――六兵衛 ――六兵衛治清――新兵衛 天正5 天正10
弥次兵衛という通称は日近の庄屋石原家にあり、光映の妻木村家(倉敷市中庄)の分家と日近石原家も縁戚になるので、日近石原家は上記系図の喜兵衛の子孫になるのかも知れません。
加左衛門光延――+――長兵衛道清 延宝4 | 貞享5 室生石氏 | 室岩崎氏 +――六太夫 | +――作右衛門 | +――治右衛門――六右衛門――+――平蔵 ――太三郎 | 享保17 | 文化8 | | | +――定右衛門 | +――利兵衛光利――+――女 延享1 | 秋山吉左衛門妻 室中田氏 | +――幸右衛門盈清――+――辰右衛門光命 ――+――林治 早世 | 宝暦13 | 寛政12 | | 室小西氏 | 室 +――女 | | | 小野庄蔵妻 | | 藤田 | | +――文蔵盈富 +――光寿 永次郎――団之進 | | 室友野氏 | | | +==鶴右衛門光・ ==団之進命光 | +――女 早世 瀧波氏 | | | +――女 | | 岡山升屋へ嫁 | | | +――女 | 下土田庄屋某家へ嫁 | 宮内社家へ嫁 | 小豆島佐々木家へ嫁 | +――万右衛門光政――+――女 早世 安永3 | 室中田氏 +――女 | 料治庄八妻 | +――女 | 堀軍治妻 | +――吟兵衛光資 ――+――女 | 文政2 | 前田章甫妻 | 室前田氏 | | +――女 +――左兵衛扶道 | 板野茂之助妻 | 羽原家嗣 | | 文化10 +――女 | | 田結多門妻 | | | +――彌一郎光恕――万次郎光映 | 天保2 光賢あと嗣 | 室光詮娘 | +――万右衛門光詮――+――宗次郎 早世 | 文化11 | | 室遠藤氏 +――女 | | 藤田清作妻 | | | +――女 | | 石原光恕妻 | | | +――きょう | | 佐伯惟因妻 | | | +――女 早世 | | | +==利兵衛光賢 ――+ | 平田氏 | | 文政8 | | 室光詮季女 | | | +――女 | | 江国半三郎妻 | | | +――女 早世 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==万次郎光映――+――源太光禄 ――+――徳太光重――+――淳一 ――牧 光恕男 | 明治11 | 大正1 | 明治4 | 室丘咲氏 | 室鳥羽氏 +――豊太郎 室木村氏 | 室三宅氏 | | 昭和30 | +――君野 | 室田原氏 +――琴 | 松原譲妻 | | 大賀篤太妻 | +――玉亀 | +――始二 | 和気来治妻 +――里恵 丘咲家嗣 | | 内藤貞吉妻 +――萬亀太光昭 | | 昭和17 +――淳太庸庵 | 守屋分家興 +――募 ――寿子 昭和48 昭和25 室林氏
系図に付いている余談を抜粋して紹介します。
官平(光映)は代官(=大庄屋)を勤め、大崎村及隣村数ヶ村を支配しました。33才で天然痘に罹り、大きな顔があばただらけになりました。晩年、中風に罹りましたが、その後に書いた百人一首も中々立派な筆運びでした。情深い人で、親族はよく石原家にやってきました。佐伯瀬左衛門惟因夫婦も子供の洪庵等と共に蟄居の際暫く来ています。瀬左衛門は洪庵を「うちのドラがドラが・・・」と言っていましたが、これは洪庵が学問に熱心で常々頬杖をついて読書に耽っていましたので、「本道楽」と云うのを「ドラ」と短くしたものです。
源太は庄屋を勤めていましたが、他家の棟上式に招かれて餅投げをしようとして高所へ上がり、転落して頭蓋底骨折をおこしました。長期間療養して全治はしましたが、その後性格が変ってしまいました。
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