間野五三兵衛藤原義明



五三兵衛(ごさんべえ)の墓碑(下写真)に次のような文章が彫られています。

泰月寿覚居士
翁諱義明小字伊助本姓石原氏窪屋郡西坂人父兵右衛門正由母佐野氏比冠為本郡生坂里正間野九郎右衛門義子稱五三兵衛蒙其氏襲其職遂為十六村長為人簡雅勤倹又能恵下後劇従容無遺失官特命隻刀以旌其功養姪英明為子亦継其職而翁老安永己亥仲秋廿日以寿終年八拾六其日葬干先塋之地銘曰貽謀余慶功徳永馨今迫死生惟寧 不肖英明建

五三兵衛は、元禄7(1694)年、備中国窪屋郡生坂村西坂(現在の岡山県倉敷市西坂)の庄屋石原兵右衛門(孫次郎)正由の次男として生まれました。母は佐野金兵衛の妹です。幼名は作之助、後に伊助と名乗りました。正徳3(1713)年、20歳で生坂村の庄屋間野九郎右衛門氏明の養子となって、源左衛門を襲名して庄屋職を嗣いでいます。それから経済的に大成功をおさめて、1町1反(約3300坪)の屋敷に53もの棟を並べる大屋敷に住むことになりました。その富豪ぶりが有名になって、世の人が五三兵衛と呼びはじめ、ついに自らも五三兵衛と名乗るようになりました。寛延2年頃のことといわれます。なお、義明というのは諱(いみな)で、間野家では代々「明」の文字を付けるようになっていました。このこだわりの文字を「通字(つうじ)」といいます。

備前藩池田家の記録によると、五三兵衛は、宝暦11(1761)年、苗字帯刀を許されて、間野と名乗りました。明和4(1767)年、74歳になって足腰が衰えたことを理由に、大庄屋の執務を養子の次郎四郎英明に代行させています。安永3(1774)年には、大庄屋の職をとかれ、安永8(1779)年に86歳で死去しています。

間野家の養子となった五三兵衛は、養父母の許可を得て3年間、伊勢へ参宮し修行しています。伊勢ではさか藁葺の、6畳2間と炊事場付きの下宿に住み込んで、「カワイ太夫」に付いて毎日、朝夜に白衣帽子を着て祈願しました。享保元年、帰国する前に、3か月間にわって大神楽を奉納しています。帰国してからも常に神を敬う心が厚く、鬼門に三間立の蔵を建築する時には自ら身を清めて神に祈ったという話もあります。「カワイ太夫」というのが何者になるのかは判っていません。

婿養子に入ったのなら、だいじにされている家つき娘を置き去りに、遠国へ修行に行ったというのは普通では理解できません。その背景は、五三兵衛が間野家の養子となる前の九郎右衛門方の戸籍(宝永5=1708年正月の生坂村百姓帳、岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫)からうかがえます。

壱軒

一家内四人内男弐人
      女弐人      源左衛門
    内
 壱人    源左衛門    歳五十九
 壱人    女房      歳四十六
    友右衛門後家
 壱人    嫁       歳二十三
 壱人    弟伴右衛門   歳三十五
  牛壱疋

戸主欄の源左衛門は九郎右衛門氏明のことです。やはり庄屋職に就いている間は源左衛門と名乗っていました。
十三も歳の離れた女房は後妻です。
九郎右衛門と先妻川上氏との間に生まれた友右衛門は、妻を迎えて間もなく(宝永4年8月)亡くなります。つまり、夫の死後4ヶ月余経った宝永五年正月時点で、そのまま婚家に居残っています。
もっとも、戸籍調査を実際に行ったのが宝永5年正月より少し前であったのかも知れませんが、五三兵衛はこの後家の後入り夫として間野家に迎えられたのではないかと考えています。
とにかく、こういう家庭に五三兵衛が養子に入ったことは間違いありません。現在までいろいろ調べた結果では、五三兵衛と間野家の血縁関係を証明する事実はありませんので、九郎右衛門と五三兵衛の代の間での血脈の継続の有無は不明です。ただ、血脈の断絶があるのではないかと思われるいくつかの証拠があります。

上記戸籍に出ている戸主九郎右衛門の弟伴右衛門(高明)は分家していますが、先祖代々の墓地を受け継いでいて、五三兵衛の方が新たな墓地を造成しています。倉敷市史に間野(清水)家の由緒書を提出した尚明氏はこの伴右衛門の直系ですから、血脈の断絶を理由に伴右衛門が何らかの権利を主張した可能性があります。また、祖母(清水多喜野)は、尚明氏の家は五三兵衛の家から分かれたのではなく、清水家から分かれたというように説明していたようですから、やはりこの代の血脈の断絶について親族間でいろいろ取り沙汰されたのだろうと思います。
このような血縁の有無はけっこう拘られるもので、逆に、こういう言い伝えがないのに、調査を始めると或る代で夫婦養子が見つかったという時には、夫婦のいずれか或いは両者がその先代、先々代の血脈を引いていることはほぼ間違いなく、養子となった夫婦の実家に、調べたい自分の家に関する貴重な情報が遺っていることがあります。系図を辿る場合には、嫁に来た人の実家より、養子に来た人の実家が大切です。

五三兵衛の経済力について幾つかの記録があります。倉敷市史をもとにしていくつか紹介してみます。

53棟の大屋敷には講武所、学問所、村政所等、公共の用にする建物も含まれました。離れ座敷との縁伝いの南には小松が植えられていて、離れ座敷の畳と敷居を除けば能舞台に変わり、毎年春と秋の二回、倉敷の水沢家をはじめとする親族を呼び、五三兵衛自らシテとなって能を開催しました。狂言は岡山西大寺町小野氏等の参加で行われ、岡山からよんだ楽方も皆素封家連中でした。また、酒造場では千石位の酒を醸造し、使用人は百余人もいて、切米札という融通札を発行しました。また牛馬5−60頭を飼育して、下男が5〜60人いました。

五三兵衛は道具長者ともよばれ、道具倉庫も10程ありました。
或る時、倉敷村の富豪が婚礼で屏風を多数必要になり、番頭を遣わして五三兵衛に金屏風を貸してくれと頼みました。五三兵衛は
「金屏風は正月に先祖供養をする時に使う屏風で一隻しかないので他へは貸し出せない」
と断わりました。倉敷の富豪は
「以前に五三兵衛の家で金屏風を幾隻も見せて貰ったことがあるのに何故いまは無いと云って貸してくれないのか」
と怒って、再び番頭を遣いに遣りました。それを聞いた五三兵衛は
「金紙を貼った屏風なら貸しましょう。金箔を貼り付けた屏風は一隻しかございませんのでお断り致しました」
と金紙屏風を十隻送りました。
天保6(1835)年に江戸の八島五岳が刊行した「百家畸行伝」には、金屏風の所持者は屏風収集に凝った倉敷の大島屋彦兵衛として紹介され、貸出を頼んだのが五三兵衛と書かれています。また、貸出を断わった金屏風は高さ3尺(90センチ)厚さ1寸(3センチ)の真金の板で作られた6枚屏風であったと書かれています。
富豪と黄金伝説は切っても切れない関係のようで、美作国落合村(真庭郡落合町)の長者金田某氏が、五三兵衛が高段の碁を打つと聞いて、訪ねて来たことがありました。毎日ご馳走を出しましたが金田某は一言の礼も言いません。そこで、黄金の釜で飯を焚かせ、古器に盛り付けて馳走した所、はじめて長者式の馳走の仕方に満足して帰りました。

こうした経済力の基盤はたくさんの所有田畑によるのですが、実際にどのくらいあったものかはよく判りません。しかし、五三兵衛が間野家へ養子に入る前から間野家には大きな経済力があったようです。間野家は、五三兵衛が養子に入る数代前に今の清水家から分家したのですが、分家して後急激に財力を蓄え、その後もこれをうまく維持したようです。その基盤の上に5代目の五三兵衛が更に家産を膨らませたということかも知れません。五三兵衛は、生坂及び隣接の田の用水の建設も自費で行なって隣村の便も計ったといいます。

五三兵衛自身は酒造で大儲けしたようです。
五三兵衛が間野家に養子に迎えられた頃の清水家は、40に近い当主の源太兵衛にその妻というさびしい家庭で、しかも、間もなく女児(喜與)を産んだ妻が早世、源太兵衛も喜與が10歳にもならないうちに亡くなってしまいます。
そこで、五三兵衛が喜與の世話をすることになりました。当時の清水家には約12haの水田があったようですが(地利米120石とあるので単純計算しましたが、当時の生産性は低いので耕地面積はもっと広かったかも知れません)、ここから獲れる米も五三兵衛は酒にかえたようです。
五三兵衛は自分の従兄の次男利八郎を喜與の婿養子として迎え、絶えそうになっていた清水家は息を吹き返しました。
喜與の孫槙が嫁いだ中島家には清水家のルーツを書いた文書がありますが、これには五三兵衛の家(間野家)の先祖はたいした由緒の家ではないとか、金持ちになったから名門と云われるようになっただけだとか、清水家の孤児(喜與のこと)を引き受けてから財産が増えたと書いてあります。
祖母からも五三兵衛の名は度々聞いていましたが、誉めたことは一度もありませんでした。

事実はどうなのか判りませんが、五三兵衛のお陰で今の清水家が絶えずに続いているわけですし、下記の略系図のように石原家を通じて共通遺伝子を受け継いでいることも確かです。そういうことで、私は五三兵衛に感謝し、墓参の度に、五三兵衛の墓碑に手を合わせています。

石原茂右衛門――+――文右衛門――茂一兵衛――+――小右衛門(亀之助)
    正勝  |    貞義    義芬  |    常季
        |              |
        |              +――又之助
        |                 =利八郎・・・清水
        |
        +――兵右衛門――+――繁右衛門
             正由  |
                 +――作之助
                 |  =五三兵衛・・・・・・・・間野
                 |
                 +――義平治

五三兵衛の名が現在まで村に残っているのは、ただ大金持ちだったからではありません。やはり、人の世話も良くして人望が厚かったからだと思います。

五三兵衛の執務室には大きなかごに村中の家々の印鑑が山のように盛られていました。首より大切な印鑑を預けるという信用は絶大でした。

貧しくて檀那寺である東雲院への務めも寄進も出来なかった村人がいました。
ある時、親が死んだので住職に「経を上げてください」と頼みましたが、いままでの務めが悪かったので、葬式に来てくれませんでした。江戸時代の寺は寺社奉行の管轄で、戸籍を管理してたいへんな権力を持っていました。葬式をして貰えないのは死亡証明書を発行して貰えないのと同じことです。死体は何日もそのまま放置され、夏でもあったので腐敗しはじめました。村人は五三兵衛に泣きつきました。五三兵衛は
「一両日中に葬式を出して遣るから心配するな。今日にも東雲院前のうちの田に櫓を組むから、死体を棺にいれてその上に運びなさい」
と云って櫓上に死体を載せ、村人を集めて経を読ませました。それから各家の玄関に備えた火災用の大団扇を持ち寄らせて寺の方向へ向けて死体を扇がせました。一日半程すると寺から臭いからやめてくれと云ってきました。五三兵衛は
「死亡の確認も経も上げて貰えないので、待つ間の腐敗を防ごうとして止むなく扇いでいた」
と答えました。住職は詫び、葬式が行なわれました。五三兵衛はこの村人に代わって寺に布施をおくりました。

生坂村は天領倉敷に近いところです。倉敷人と争えば、江戸迄引っ張られて裁判になるので、倉敷の近隣の村人は倉敷代官や町民を恐れていました。
生坂村の或る家が倉敷から嫁をもらいましたが、事情があって離縁しました。嫁の父は怒って来て、座敷に小便をしたり道具を壊したりしました。困った村人は五三兵衛に相談しました。五三兵衛は人を使ってこの親を捕まえて縛りあげさせました。村人は驚き、後に自分に災いがふりかかることを恐れてこの親に金を渡して帰そうとしましたが、五三兵衛は相手にしません。
「天領の狂人が怪我をされては困るので保護して送ります。貴方から代官へよろしくお取り計いお願いします」
と書き添えてこの親を駕篭に乗せて倉敷村の親族水澤家まで送らせました。水澤氏は笑ってこの親を受け取り、事情を話して代官に引き渡しました。代官も他村で暴行したこの親を厳しく注意しましたので、この後、生坂村で天領の人間だとえらそうなことを言っても通用しなくなったそうです。水沢家は古禄という倉敷町で大きな発言力を持つ豪商で、間野家の親戚でもありました。


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