平井家
浅口郡六条院西村



東江原の平井家系図を検証する目的で玉島八島嶋地に瀬良家墓地を訪ねました。
その際、地元の方から嶋地の庄屋国枝家墓地の場所もお聞きしました。
それからしばらく経って、国枝家の墓地を訪ねてみました。
その時、国枝家墓地の南に「六条院西村産平井某」という古い立派な墓碑を見つけ、その周りに「吉田」「原田」と刻まれた古い墓碑がいくつも草に覆われているのを見つけました。

その相前後した頃、やはり東江原の平井家と縁戚になる笠岡市の田中屋鳥越家を調べるていました。笠岡の**墓地を訪ねた際、同墓地内に同居していた竹内家の墓誌を読み、柳井原内藤家三代彦右衛門満政の妻吉田荘の実家が六条院西村にあった家であることを知りました。

柳井原の内藤は、同所原田家の墓地を捜す目的で系譜を調査した家です。柳井原の原田家からは、私の曾祖母花と従兄になる綱太が出ています。即ち、花の母千鶴は渡邉の分家から本家に嫁いでいますが、千鶴の兄善右衛門是則夫婦に子がいなかったので、柳井原の原田武右衛門四男綱太を十四歳で養子に迎え入れています。
私が渡邉家系譜を整理するために、分家を訪ねた時、ご当主が
「ありゃー、うちは血が続いとらんがぁ・・・?」
と残念そうに言われたのを今でもよく覚えています。つまり、祖父綱太の代に夫婦養子となって、もとの渡邉家とは血が続いていないという意味です。しかし、本家の方々は分家と血脈が断絶しているという話をされたことはなく、分家当主自身も私が系譜を紐解くまではそういう意識はありませんでしたから、綱太は渡邉家の血を引く人に違いないと思われます。

原田家の系譜を確認するために、渡邉分家に遺された書類を手がかりにして柳井原を訪ねました。ところが、柳井原には原田姓はもともとないと云われ、墓地もまったく見あたりません。書類には、原田家は柳井原の豪族内藤家四代頃の有力者(執事長)で、分家筋になるとあります。内藤家四代は彦右衛門満治になります。
内藤家のご子孫に問い合わせたところ、
「原田家とは血縁はなく、鴨方の方から来た家なのでお墓は柳井原にありません」
とのことでした。

柳井原内藤家の墓誌には、満政の妻荘は「吉田氏」としかないのですが、竹内家の墓誌には「吉田嘉右衛門娘荘女」とあり、この吉田嘉右衛門に覚えがありましたので、パソコンに蓄積していたテキストデータを検索してみました。そうすると、鴨方の高戸家系図中に「六条院西村吉田嘉右衛門」が見つかり、更に「六条院西村吉田」で検索すると、玉島八島(旧七島)の友沢家の系図中に「六條院西村吉田藤兵衛」という記載が出てきました。備中村鑑に吉田氏が出ていないかと見たところ、六条院西村さえ載っていません。個人の記憶を頼りにまとめ上げた備中国内の村役人一覧表ですから、こういう漏れがあるのかも知れません。さらに、電話帳と住宅地図で現在の六条院西に吉田姓を捜したところ一軒もありません。内藤家、高戸家、ともにかなりな豪族ですから、その縁先の吉田家も相当な勢力のあった家のはずです。江戸時代の地方豪族がぱったりと消息を絶っている例は今までに何度も見てみました。お墓だけでも捜したいと思いました。

柳井原内藤家三代妻の実家が六条院西村吉田家で、四代の頃に内藤家政を取り仕切った原田家が鴨方から出ていることが判りました。吉田家と原田家が縁戚であれば、渡邉家所蔵の書類にある「原田家は内藤家の分家筋」という記載を「原田家は内藤家の縁先」と理解すれば、辻褄が合う事になります。

とにかく吉田家墓地を捜そうと六条院西を訪ねました。ある山頂の平地に立派な墓碑群が立ち並んでいるのを見つけました。そこには吉田と平井の二家分の墓が立ち並んでいました。
碑文を読んで、他家の系譜と照合しながら整理した平井家の流れが次の系図です。


九郎兵衛――與右衛門  ――與右衛門忠静――與右衛門吉忠――瀧右衛門  ――彌八良  ――瀧右衛門  ――貫一郎 ――+
承應2   元禄10    享保8     宝暦8     安永7     文化13   文久2     明治8   |
室吉田氏  室原田氏    室福井氏    室       室       室      室       室     |
                                                           |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――慎吾  ――茂
|  明治19  昭和15
|  室

+――正典
   守安家嗣

吉田家の墓碑には、「平井氏」と刻まれた墓碑が二基あり、
「原田助二郎之妻 吉田氏於丹之墓 貞享元年九月朔日」
という墓もありますので、平井、吉田、原田は重縁になっていることが判ります。
「六条院村誌」に、嘉永年間から明治初めに土居で名主平井貫一が、文久元年から明治五年頃、土居の農民、平井慎吾寺子屋を開いていたという記録があります。

「六条院村誌」には、西六条院村名主として以下の記録があります。

彌八郎 元禄十四年山王神社棟札
與右衛門忠静 宝永七年牛頭天王棟札
瀧右衛門 宝暦八年牛頭天王棟札
彌八郎 文化二年牛頭天王棟札
都蔵 文久元年備中村鑑


ホームページへ