守安家
窪屋郡西郡村


先祖は代々西郡の福山城主大江田式部少輔の家臣で、足利将軍2代義詮の時代、細川・三好の軍勢が押し寄せて来たとき、守安(もりやす)兵庫信久は戦死しました。その嫡男八郎左衛門は浪人して、備中松山城主高梁備中守の領内川西中村に引き込んでいました。
将軍義稙は大内義興を通じて、備中国に三村修理進家親(上房郡松山城)、石川左衛門尉久次(窪屋郡幸山城)、上野民部大輔(下道郡鬼邑山城)、二階堂大蔵少輔政行(浅口郡片島城)、伊勢左京亮貞信(小田郡高越山城)を派遣して備中国内を治めさせました。この時、守安兵庫から4代の孫八郎左衛門(采女)は石川久次に呼び出され、千二百貫の領地の知行をうけて家臣に加えられています。
以後、代々石川家に仕えていましたが、将軍足利義昭と織田信長の不和から始まった備中国内の勢力図の塗り替えに際し、織田方に加わった石川家は、天正3年の毛利家の大軍の総攻撃で敗走することとなりました。守安八郎左衛門は浪人し、その子次郎兵衛は西郡村に帰農しています。
その子與右衛門の代には280石の土地を所有していたそうです。



この與右衛門に4人の子があり、長男與三右衛門が60石、次男與右衛門は50石、3男與兵衛が50石、4男源左衛門が120石をそれぞれ相続しています。即ち、先代與右衛門の家督を継いだのは4男で、長男、3男は同村内に分家、次男は隣の宿(しゅく)に分家しているようです。各々の子孫はみな三つ鱗の家紋を使っています。

(系図1)

八郎左衛門――次郎兵衛――+――與右衛門――+――與三右衛門――與右衛門――――+
采女           |        |                 |
             |        +――與右衛門           |
             |        |                 |
             |        +――與兵衛            |
             |        |                 |
             |        +――源左衛門           |
             |                          |
             +――助兵衛――次郎兵衛――休庵――寿雲――玄泉   |
                           延宝7     元文3  |
                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――八郎右衛門――・・?

+――與右衛門――平九郎――武右衛門――平左衛門――定平――治平――兼五郎――春三

以上、系図をもとに、同家の過去帳、及び医人伝にある守安玄泉の家系説明を参考に書いてみました。休庵、寿雲、玄泉と医業で、玄泉は元禄11年、5人扶持を与えられ、御郡方医師を勤めていました。

倉敷市史によると、元和の頃の山北大庄屋に與右衛門、慶安の頃に源左衛門、元禄の頃に武輔という名がみられます。
西郡にはいまでも守安姓が多く、南北朝時代からこの地に根を張っていた一族だというと、なるほどその通りかなと思います。倉敷市街地の北の山並みより北側を山北、それより南を山南といって、備前領大庄屋の管轄領域が分けられていました。



系図と上(かみ)の庄屋と呼ばれる家の墓碑をもとに整理してみます。ただ、古い墓は「らんとう」になっていて、石塔墓にもほとんど情報が記されていません。
守安家先祖のらんとう墓はかなり大型で立派なものです。ここにはスズメバチが巣をつくっていて、秋から初冬の活動期に近づくと危険です。古い墓地では、ときどきこういう留守居役がいるので要注意です。



(系図2)

與左衛門春清――+――源左衛門正盛――+――九左衛門
元和9     |  慶安3     |  宿へ隠居
室       |          |
        |          +――武助盛児――+――武輔盛伯――+――源左衛門豊智――+――清助篤興 ――+
        +――女          元禄2   |  享保7   |  延享1     |  安永9    |
           間野家明妻            |        |  室丸川氏    |  室      |
                            |        |          |         |
                            +――源太夫   +――三郎兵衛盛清  +――幸十郎盛章  |
                               丸川家嗣  |  分家下屋敷      元文1    |
                                     |                    |
                                     +――武助盛員              |
                                     |  寛保1               |
                                     |                    |
                                     +――治右衛門              |
                                        寛延2               |
                                                          |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==清介常唱  ――+==松五郎常徳――+――源蔵常昵 ==正典  ==正倫  ――由一  ――+――久
|  木村氏     |  若林氏    |  明治16   平井氏   不二氏   昭和63  |
|  享和3     |  弘化1    |  室亀山氏   明治44  昭和14  室中島氏  +――男
|  室小川氏?   |  室家女    |         室家女   室家女
|  室三宅氏    |  室大熊氏   +――信
|          |  室栗原氏   |  若林師趙妻
+――梅       |         |
   井手文五郎妻  +――女      +――多作
           |  亀山原綱妻     弘化2
           |
           +――タキ
              木村政敦妻

豊智の妻は浅口郡西阿知村から玉島に移住した丸川源太夫林宗の娘です。この家からは清水家の株家の間野家に養子に入っている人もあるようですが、どの代の子かよく判りません。
この家は上(かみ)の庄屋と呼ばれるように、現在の西郡守安一族の集落より少し高いところに屋敷跡があります。しかし、上の庄屋のらんとう墓は、大半の守安一族の墓地がある墓地山とは離れた少し低い位置にあり、それ以降の墓碑も墓地山から移動されたと聞いています。長男與三右衛門系の墓地も西郡から足高山に移転されています。墓地の移転は家の移転よりも更に一族の系譜をわかりにくくして行くようです。



「下(しも)の庄屋」

(系図3)

三郎兵衛盛清――源助言珍――盛與 ――敬治久業――甚蔵重興――+――甚蔵  ――+――登美
享保9     安永3   文化3  天保3   明治12  |  大正5   |
室       室     室    室     室中西氏  |  室松尾氏  +――志計
                               |
                               +――畏卿   ――+――巌    ==文策 ―― 一視
                               |  大正8    |  昭和11   安藤氏  平成15
                               |  室難波氏   |  室日笠氏   平成2  室
                               |         |         室家女
                               +――女      |
                                  堀家輔政妻  +――嘉津
                                            堀家作政妻

畏卿、巌、文策と医師が続いています。清水濱の葬式帳に守安畏卿の記録がみえます。西郡は郷里の生坂から一山越えたすぐ向こうですから、死ぬ前に患者として世話になっていたいたのだろうと思います。

下の庄屋といわれるのは、上の庄屋と対になっていますし、古文書でも確認していますので、2軒が協力して村の政治に関わっていたことが理解できます。

賀陽郡八田部村にも守安姓がありますが、この一族も西郡から出たそうです。明治5年の総社宮世話人を書き上げた文書中に、二神子守安九重51歳、四神子守安登女43歳という記録があります。


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