山田家阿賀郡西方村

山田家
阿賀郡西方村





山田家は清和源氏で、尾張国山田荘にいた山田重遠の3男に大和守重弘という人があり、この嫡男駿河守重英が、寿永3(1184)年に源範頼に従って中国地方へ転戦、その戦功によって備中国英賀郡(阿賀郡)28ヶ村を与えられて、文治3(1187)年に佐井田(才田)城主となっています。戦国時代の末期、子孫の源内重記は毛利方の武将として功績を挙げますが、関ヶ原の戦の後には帰農して西方村に住みました。こういう歴史があったので、重幸、重昌の頃には、備中松山藩水谷氏から郷士格を与えられています。

重昌の孫宗左衛門益昌は、山田家の菩提寺定光寺の住職が益昌の許可を得ずに長男郡次郎を剃髪して僧侶にしたしたことに腹を立て、住職を斬殺して自らも寺中で自害しました。当時の寺の住職は戸籍を通じて住民を管理するという、領主の手足としての重要な役割を果たしていましたから、山田家は全財産没収、妻子所払い(追放)になりました。定光寺は曹洞宗で、山田家の先祖が室町時代に勧請建立したものです。領主が石川氏から板倉氏に代わり、善太郎正芳は19年の放浪生活を終えて村に帰ることを許されました。この正芳の孫が松山藩の藩政改革に辣腕を振るった方谷です。この正芳に対する板倉家の温情的措置に報いるために、後に方谷のが藩のために一生懸命に働いたかのように書いてある本もありますが、領主が代わっただけ、しかも、土地の事情を知らない新領主がなぜ一介の農民の復権をしたのかは全く理解の出来ないことです。

善太郎正芳は帰村してから家の再興に全力を傾け、その子五郎吉は菜種油の製造と販売をしながら一生懸命に働き、領主板倉勝職から御目見格に準じる待遇(長百姓)に処されるまでに家運を挽回しています。しかし、たいへん無理をして働きすぎたためか、方谷(ほうこく)が14~5歳の時に相次いで死去しています。後年、方谷が両親の法事の時に石に刻んだ文に
「父は幼い頃から自分に家の先祖と伝統について話して聞かせ、お前には山田家を再興する重大な役目があると教えるのが常でした」
という一節があります。

方谷は5歳の時から新見藩の儒者丸川松隠門下に入り、20歳で松山藩から士分に取り立てられ、藩校の筆頭教授に任命されています。嘉永2(1849)年、板倉勝静が藩主となると、抜擢されて藩政改革の仕事を任せられます。ここで、10万両の負債を償却した上に、新たに10万両の余財を生み出すほどの働きをし、この成功によって他藩からも勉強に来る人が跡を絶たなかったそうです。折しも、藩主勝静は幕府の老中まで勤めていましたので、その補佐役として中央政界でも活躍することになりますが、さすがの方谷も傾いた幕府の屋台骨までは治せず、幕府は潰れ、松山藩は朝敵にされて備前岡山藩の占領下に入りました。その後、門弟の教育に力を注ぎ、明治6年には閑谷学校の校長にもなっています。河井継之助(越後長岡藩家老)、三島中洲をはじめ、門人は全国に千人以上と云われます。

大炊祐重明――重忠――+――重宗
           |
           +――源内重記――七左衛門重幸――治左衛門重昌――茂右衛門重太――+
                                            |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――宗左衛門益昌――+――郡次郎
   元文4     |
           +――善太郎正芳――+――辰蔵重記
              寛政1    |
              室津々氏   +――五郎吉重美――+――安五郎球――+
                     |         |  明治10  |
                     |  室西谷氏   |  室若原氏  |
                     |         |  室吉井氏  |
                     +――多七     |        |
                               +――槌平    |
                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==耕蔵  ――+==準   ――+――琅   ==琢
   明治14  |  木村氏   |  昭和39  平成12
   室中島氏  |  昭和27  |  室加藤氏
         |  室耕蔵娘  |
         |        +――璋
         +――女     |
                  +――琢

方谷には一女がありましたが幼くして亡くなり、弟耕蔵が準養子となって家督を相続しています。耕蔵の妻は浅口郡大谷村(同郡金光町大谷)の中島家から来ています。渡邉保太郎は、最初に山田方谷先生の姪を妻に迎えたと聞いています。故有って離縁していますので、残念ながらその人に関する情報は今のところ見あたりません。
琅妻(加藤氏)の実妹が高本懋の妻波子です。

槌平  ――耕蔵
嘉永2   球跡嗣
室西谷氏

辰蔵重記――與右衛門――円八郎 ――敏次  ――冨秋
天保2         明治21  昭和15  平成17
室宮崎氏  室三輪氏  室     室     室操田氏



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