板倉家
板倉家の先祖は清和源氏、源義平の5代の孫足利泰氏2男義顕を祖とします。
義顕は下野国足利郡板倉郷に住んだので、子孫が板倉を名乗るようになったそうです。
10代の孫頼重は三河国額田郡小美村に住んで松平氏に仕えました。
頼重の孫勝重は家康の信任が厚く、譜代大名となりました。重宗は明暦2(1656)年に下総関宿に5万石で入封。寛文9(1669)年重常の時に伊勢国亀山に転封、宝永7(1710)年には志摩国鳥羽に転封されますが、享保2(1717)年にまた亀山に再封されました。
延享元(1744)年にはその子勝澄が備中松山5万石に転封され、以後明治維新まで続いています。松山藩主となった7代目勝静は山田方谷を抜擢して藩政改革を成功させ、幕府老中として大政奉還に中心的人物として活躍しています。このため、朝敵とされて岡山藩から攻撃部隊を差し向けられますが、この時の両藩の話し合いの舞台となったのが松山往来美袋駅本陣田邉家でした。
下総関宿 伊勢亀山 志摩鳥羽 備中松山 勝重――+――重宗――+――重郷――重常==重冬――重治――勝澄――勝武==勝従==勝政==勝■==勝職==勝静――勝弼 | | | | 上野安中 陸奥泉 上野安中 | +――重形――重同――重清――勝暁==勝意――勝尚――勝明==勝殷 | | 三河深溝 下野烏山 上総高滝 備中庭瀬 +――重昌――+――重矩――+――重良――重宣==重高――昌信――勝興――勝志==勝喜==勝▲==勝資――勝貞==勝成==勝全==勝弘 | | | | | | 武蔵岩槻 陸奥福島 | | +――重種――重寛――重泰――勝里――勝承==勝任――勝行==勝矩――勝長――勝頼――+ | | | | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | | | | | 三河重原 | | +――勝尚――勝克==勝達――勝憲――勝朝――+――勝宏==敏和――+――勝教 | | | | | | +――勝高 +――勝敏 | | (旗本) | +――重直――重種――重寛――重行 | +――重大――+――重冬 | | (旗本) +――重浮――勝丘――勝該
■:俊の左が目、カツアツ
▲:氏の下に一、カツトモ
この系図作成には窪田さんのご協力を戴きました。
勝重の次男重昌は島原の乱の時に幕軍を率いて原城を攻めて討死しています。重昌の妻は織田信長家老林佐渡守通勝の娘で、林氏はこのウェッブサイトで紹介している坂井家の先祖です。
<重昌の辞世>
あらたまの年に任せて咲く花の
名のみ遺らばさきがけと知れ
正月朔日寅の刻
重矩も島原で奮戦し、後に5万石に加増されています。重矩のあとは、長男重良が病弱のため、3男重種が家督を相続します。重種も老中にまで出世しますが、ある事件がもとで1万石を減封の上、信州坂本に移封の上蟄居を命じられます。
事件の顛末は次のようになっているようです。
重種は、はじめ叔父重直(筑後守、御書院番頭、八千石)の養子となっていましたが、兄重良の廃嫡により、実家に戻って家督を相続したわけです。この時、実子重寛を重直の養子にしました。
重良の妻は岡山藩主池田光政の姪で、重良派の家臣たちは、重種のあとは重良の子重宣が嗣ぐべきものと期待していました。ところが、重種は、重宣が病弱だという理由で、実子の重寛を叔父重直の家から取り戻して嗣子にしたいと幕府に願い出て許可を得てしまいました。これに反発した重宣側は、池田光政に訴え、それを受けた光政が板倉家に抗議すると共に幕閣に働きかけたので、重種が失脚したようです。
池田 利隆――+――光政――綱政 | +――恒元――+――政周 | +――蝶々 ‖ +―――重宣 板倉 ‖ 重昌――+――重矩――+――重良 | | | +――重種――重寛 | +――重直
表面的には、重種の欲に対して、重宣の母が伯父の権威を借りて戦を仕掛けて見事に勝ったように見えますが、個人的な争いという単純なものではなく、家臣団が派閥を作って争った結果のようです。
このことがあって、子の重寛に3万石(上総高滝=千葉県市原市)、兄重良の子重宣に2万石(備中庭瀬)と、分地を命じられました。重宣の後見であった池田家の所領に近い場所があてがわれたようです。
重宣の末期養子となった小出信濃守英知3男重高が、元禄12(1699)年、備中庭瀬に陣屋を置いて、備中国賀陽、都宇、小田3郡の内に2万石を拝領しました。
重寛のあとは陸奥福島藩主となって明治維新を迎えますが、この家は明治になってからこのウェッブサイトで紹介している野崎家と縁戚関係を結んでいます。
ホームページへ