石井家
深安郡深津村
大原孫三郎の妻となった寿恵さんから何代か前になる長次郎盈慎へ嫁いだ人の父親が玉島の西綿屋中原氏、更にその母親が玉島陶の山田氏で、その山田氏の実母が玉島長尾の坡南小野家から出ているのでその先をずっと遡ると石原家につながる。そうするといまの大原家と私は共通の遺伝子があるはずだという一本の遺伝子線を頭にぼんやり描いていました。
以前掲げていた手抜き系図は、一度、大谷氏から誤りをご指摘いただき、その折り
「今、深津には誰もおらず、旧屋敷地には土蔵と草原が残るのみと聞いています」
とあったメールの一文が妙に気になりだしました。
大石井家の邸宅跡には、いまは井戸も土塀の礎石もよく判りませんが、手前水路沿いの石組みがこの上に古い屋敷が載っていたらしいことをうかがわせます。
墓地には享保三年歿の石井孫四郎盈之とその後妻(石井平三郎娘)の夫婦墓があり、裏に「本家元祖夫婦」とあります。それに継いで武右衛門盈重夫婦墓があり、裏に「元祖夫婦」とありました。
墓碑文を具に調べ、初代武右衛門盈重からの流れを下記のようにまとめてみました。盈比の墓碑には、盈重とその妻石井氏に二男四女が有り、盈比はその末子であったこと、家は農業だったが盈比の代から里正(=庄屋役)に任命されたとあります。夫婦には子がなかったので、備後千田村の河相包好第四子粛を養子に迎えています。粛は文化年中の義倉に多額の出資を行った功績によって藩から俸禄を与えられ士分に取り立てられています。しかし、最初の妻三澤氏との間に出来た一人娘が幼くして亡くなり、続いて迎えた後妻桑田氏にも子がなかったので、外姪(西村重之と河相包好娘の間に出来た第三子)長次郎をあと嗣ぎにしています。盈慎もまた藩士に列して勘定方に任じられたとあります。
財政の傾いた藩が、富を蓄えた農民から寄付を募る替わりに苗字帯刀という免許を与え、それでも足りない時は財政責任者にしてしまう、つまり金庫ごと奉仕せよと云うわけです。これは幕藩体制が揺るいで行く盈武の代にはもっと激しくなったようで、碑文には細かい文字で藩から褒賞されたという話がいっぱい彫られています。盈武の妻登起は千田村河相小左衛門包晧の三女、祖父粛の実家から来ているようです。
孫四郎盈之――武右衛門盈重――武右衛門盈比==武右衛門粛==長次郎盈慎――+――武右衛門盈武――+――英太郎盈清――+ 享保3 明和6 寛政8 河相氏 西村氏 | 慶應1 | 昭和2 | 室石井氏 室石井氏 室本持氏 文政2 嘉永1 | 室河相氏 | 室矢野氏 | 室三澤氏 室堀氏 | | | 室桑田氏 +――盈寿 +――幸 | | 分家 | 西村重珍妻 | | | | +――晴子 +――美津 | 荒木泰續室 | 中原正謙妻 | | | +――女 | | | | | +――盈雋 | 倉田家嗣 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――安之介 | 明治34 | +――貞之介 ==凌二 ――+――荘太郎 | 昭和17 熊夫次男 | 平成7 | 室橋本氏 昭和57 | 室 | 室大谷氏 | +――正造 +――*二郎 | 明治27 | | 室三宅氏 +――*子 | 藤本**妻 +――清三 | 明治25 | +――きく | 倉田岩太郎妻 | +――仲 | 片山敬一郎妻 | +――ソノ | 山本卓妻 | +――寿恵 | 大原孫三郎妻 | +――政之介 明治42
英太郎は、慶應元年に父が死去したあと、家督相続して深津村庄屋、藩御用達を拝命しています。明治維新となって小田県区長、その後広島県議会選挙に深津郡選出議員として当選、初代議長に選出されています。教育に特に力を入れ、誠之館の再生にとって最大の恩人といわれます。明治十二年七月から約一年余、福山誠之館中学校の初代校長を勤めました。英太郎の妻小梅は備後尾道市矢野清右衛門長女、夫婦には六男四女があり、次男貞之介があとを嗣ぎました。貞之介の妻コウは岡山市片瀬町の造酒屋橋本家から来ています。橋本家は代々与兵衛を名乗り、酒の銘柄は「男山」といったそうです(大谷氏報)。
墓地に、貞之介長女(母橋本氏)多喜子(大正十年歿二十才)という墓があります。
多喜子の死去によって、貞之介弟熊夫(岡山に分家)の次男凌二が相続しました。貞之介の甥と妻コウの姪が夫婦養子となって跡を継いだわけです。
分家
・ ――・ ―― 盈規==誠左衛門盈矩――+――千代 荒木氏 | 荒木義宣妻 | 室 +――武治郎 ――+――イマ 明治39 | 近江氏妻 室 | +――好次郎 ―― 一三 ――**郎 昭和32 平成1 室 室 室
養平盈寿――辰五郎 ――邦夫 明治15 大正10 室西村氏 室
熊夫 ――+――大一郎 ――+――女 昭和14 | 昭和28 | 室藤井氏 | 室 | | 室坂本氏 +――*子 | | +――凌二 | | 本家嗣 +――*郎 | | +――敏成 | | 大正15 | | +――*郎 +――静夫 辻家嗣後離縁 | 辻家嗣 | +――愛子 昭和19
大石井初代盈重は明和六年に六十九才で亡くなっていますが、その前はどうなっているのでしょうか。
大石井の前に石井姓の墓が並んでいるのを発見しました。立石元祖夫婦墓と彫られた墓に、盈之とその妻(市村土屋太兵衛忠直妹)が一緒に祀られています。
更に、東へ離れた所に、
「立石本家元祖石井孫四郎盈之の碑 昭和五十年二月吉日 立石本家七代より分家四代節夫建之
盈之は元和元年水野勝成公福山築城に協力の為深津村に移住水野家封入の後深津郡の取締大庄屋となる後立石系石井氏となり・・・」
という碑が建てられた墓がありました。
立石というのは地名(字)でしょうか、屋号でしょうか。ともかく大石井のもとは立石本家と云われる家で、福山に水野家が入城したしたときに尽力した家であったようです。
大石井盈重の生年は本家元祖という孫四郎盈之の歿年より十八年前になり、盈之の継室(石井平三郎娘)の歿年より四十七年前になります。孫四郎盈之が元和元(1615)年に成人していたとすれば、百才くらいで末子(?)の盈重が生まれ、享保三(1718)年に百二十才くらいで亡くなったということになります。
私の勝手な想像ですが、孫四郎の襲名が何代か続いていたのではないでしょうか。
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