中原家・綿屋
浅口郡玉島新町
賀陽郡八田部村(総社市)の油屋堀家の3代目の子が分家した家と聞いています。但し、家紋は丸に鷹の羽違いのようです。江戸時代の初期に玉島の開発を行ったのは、八田部村の庄屋大森家であることは有名ですが、その縁故を頼って八田部村から玉島港に移住した家は多かったようです。
墓地は東西の綿屋と八田部村から移住した後の油屋堀家の墓地が隣り合わせにあります。墓碑は寛文3年、延宝3年に死去した夫婦のものから確認されます。それから、享保年代の戒名だけ彫られた夫婦の墓碑を中央に、理左衛門兼副(包副)利右衛門兼元(包元)という人の墓碑が東西(向かって右左)にあります。
東綿屋
兼正――+――平右衛門兼副――+――丹右衛門兼豊――+――良蔵兼留 ――貞吉 享保14 | 宝暦8 | 延享4 | 明和1 明和6 室 | 室小野氏 | 室鳥越氏 | 室水野氏 | | | +――利右衛門兼元 +――理左衛門包條 +――房 | 分家 | 天明8 | 石井世昌妻 | | 室兼元娘 | +――豊 | +――理左衛門包暁==理左衛門正徳――+ 瀬尾康政妻 +――他一男二女 寛政6 中原氏 | 室中島氏 | 室高戸氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――理左衛門 | | 室津田氏 | +――女 | 中野体平妻 | +――重 | 石井喜祉妻 | +――理左衛門正年 | 文久1 | 室水澤氏 | +――省吾正義 ――+――保太郎 | 明治3 | 文久2 | 室蜂谷氏 | | +==理左衛門兼有――+――松五郎 ――貞治 +――久子 江原氏 | 大正4 昭和16 安原正常妻 明治24 | 室 室石井氏 | +――久羅 | 明治7 | +――貞三郎 | 明治7 | +――利喜 | 庭瀬寛妻 | +――平三郎 | 明治33 | +――真坪 ==*男 | 昭和33 妹尾氏 | 室川手氏 室 | +――善五郎 | 昭和50 | +――他一男
三代兼豊の妻は小田郡北田村鳥越喜昌娘、5代兼留の妻阿佐は4代兼條(包條)の養女で、実は備前国上道郡沖新田(岡山市)水野源吉易庸の娘、6代包暁の妻は大谷村(金光町大谷)の中島騰行娘、7代正徳の妻は鴨方村の高戸林之丞文茂の娘で、その母は舟尾村(船穂町船穂)柳屋小野市郎左衛門介維の娘です。8代の妻津田氏は阿波国徳島藩とあります。9代正年の妻は窪屋郡倉敷村(倉敷市阿知)水澤真平孝成の長女、10代は備後国安那郡川北村江原圭次郎令一長男で、妻を小田郡矢掛村の石井本陣から迎えています。7代正徳の季女久子は安原玉樹という女流歌人として有名です。11代真平の姉利喜が嫁いだ庭瀬寛は川上郡布賀村(備中町布賀)の平川官左衛門親章の5男で、この夫婦の長女綾子は岡山西大寺町の根古屋久山省吾に、次女美知子は窪屋郡平田村(倉敷市平田)の難波克巳に嫁いでいます。
西綿屋
利右衛門兼元――+――利兵衛兼延 宝暦3 | 宝暦8 室小野氏 | 室 | +――利右衛門兼義――+――利右衛門包蕃==利右衛門正喜――+――増太郎 安永5 | 享和1 堀氏 | 天保14 室山田氏 | 室宮川氏 安政5 | 室山田氏 | 室包蕃娘 +――尚平正尚 +――要吉包正 | 弘化4 | 天保8 | | +――嘉三郎 +――忠右衛門 | 文政6 堀家嗣 | +――辰 | 文政12 | +――利右衛門正路――+――利右衛門正謙 | 明治12 | | 室岡氏 | 室松室氏 | 室 | 室石井氏 | | +――鶴 +――文坪晩浦 | 文政12 | 大正2 | | +――利三郎正郷 | | 文久1 +――三女子 | | +――甚三郎正庭 | | 明治10 +――節 | 元治1 +――貞 佐々木槌三郎妻
西綿屋3代兼義の妻遊は陶村(玉島陶)の山田兵右衛門芳方娘で、遊の母幾佐は西阿知村(倉敷市)の岡吉郎右衛門の娘です。しかし、山田家にある幾佐の墓碑にも、この姉の津也(玉島阿賀崎の播磨屋向店山本七郎右衛門信福妻)の墓碑にも、ともに長尾小野氏娘と彫ってあります。調べてみると、幾佐と津也の母比佐が長尾(玉島長尾)の坡南小野忠兵衛吉正の娘であることが判りました。岡吉郎右衛門は西阿知村庄屋の岡氏だと思いますが、、吉郎右衛門夫婦が早く亡くなったので、2人の娘が小野家から嫁いだということではないかと思います。4代包蕃の妻は讃岐国丸亀の宮川氏です。5代は4代の甥正喜が相続していますが、正喜は西綿屋の再興に尽力し、多くの文人墨客と交わって、「風流問屋」と呼ばれました。
玉島の本覚寺周辺にはかつての玉島港で栄えた豪商、富商の墓が多数あります。中原家の墓地は総社堀家の墓地と隣接していることもあり、前々から気がかりでしたが、ある時、思い立って、その墓碑を1つ1つ調べてみました。そうすると、東綿屋6代の妻に浅口郡大谷村中島という家名が記されているのを発見しました。それまで聞いたこともなかった大谷の中島という家が、倉敷市天城の中島家に所蔵されている文書の「大谷○○中島氏」という箇所と共に、頭の中にはっきりと浮かび上がってきました。
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