田邉(陶山)家
賀陽郡美袋村





田邉家はもとの姓を陶山と云い、笠岡城山(岡山県笠岡市)の城主でしたが、永正三(1506)年、陶山高雅の時に瀬戸内海の村上水軍に攻められて落城、笠岡市沖の神島、ついで美袋に移住しました。その後、高雅の子高倫が母方の姓を冒して田邉と名乗ったそうですが、墓碑には一貫して陶山姓を彫り続けています。田邉家の系図も遺っていますが、藤原氏の一族で、紀州(和歌山県)田辺の出、熊野の別当湛増に始まる家筋だそうです。田邉家の歴史は、屋敷跡(美袋本陣址)に隣接した美袋八幡宮にも遺されています。この神社の大永三(1523)年の棟札写に大本願主当御城主田邉出雲守高倫公とあるそうです。他に正徳四(1714)年の棟札に陶山又兵衛尉義近、同安右衛門尉宗繁、又、文政十二(1829)年の棟札には陶山和右衛門義雄の名が発願主として記されています。これらは全て田邉家の先祖です。

元禄の頃、備中松山藩水谷家が改易され、城を請け取りに来た大石内蔵助以下赤穂藩の家中の侍がこの田邉本陣に宿泊しました。田邉家にはその時送られた内蔵助からの礼状が遺っていました。

寿太郎義質は、この地方の大庄屋役と松山往来の本陣を兼務していました。幕末、備前藩から備中松山藩板倉家(当時の幕府老中)の征伐部隊が派遣されたとき、この本陣で両藩の交渉会議が開かれました。そのようなたいへんな時に、近郷の村々から助郷を拒否されます。これは当時の百姓一揆の一種です。寿太郎は上と下からの圧力に心労も局地に達したのでしょうか、明治の改元を迎える直前慶應四(1868)年の六月下旬に四十歳という若さで死去しています。その後を追うように母類世子(荒木氏)も死去し、寿太郎の父和右衛門義雄(溝手氏)は晩年も苦労の連続であったようです。

助郷というのは街道を通る偉い人のご一行の荷物を持ってあげるお手伝い役のようです。大名行列になると人員も多く、荷の数も膨大になりますから、お手伝いさんもたくさん必要なわけです。お手伝いさんは宿場町の周りの農民であり、それらの人に声をかけて集めてくるのは宿役人の仕事であり、その最高責任者は本陣主人であり、宿場町の庄屋であったわけです。助郷は僅かばかりの給料でかなりハードな勤めであり、その間は自分の田畑も耕せないわけですから、農民にとってこの上ない迷惑だったようです。

島崎藤村の「夜明け前」という本にもありますが、幕末の黒船騒ぎ以来は諸大名の往来が一挙に増え、幕藩体制の弱体化が目立つようになりますから、農民も領主の足元を見るようになって、あちこちの宿場で、平気で助郷ボイコットを始めたのです。
よりによって領主板倉候は幕府の老中に就いていましたから、松山往来の頻度も多く、従って美袋近郷への助郷徴集も度々であったようです。堪らなくなった農民は知らぬ顔をする、間を取り持つ庄屋兼本陣はお上からお叱りを受けるという始末です。寿太郎の場合は職務不行き届きということで入牢までさせられています。

和右衛門には如瓶(じょへい)という号で、明治十四(1881)年に亡くなっています。この時に孫の男子(田邉安八郎、平川貞五郎、大橋俊太郎)が記した祖父の霊前に捧げる誓約書が遺っています。

その内容は、

1、田邉家は数代前から家運が衰退していきました。祖父は十二才で曾祖父の養子となり、間もなく養父と死別します。それからはたいへん辛い生活の連続でした。文政三(1820)年には大火災で家屋敷家財道具を焼失して家名が断絶するかと思われるような不幸な目にもあいました。祖父はそれにも負けずに家運挽回に努められました。また、血筋は曾祖父の代で断絶しましたが、子寿太郎には五男一女ができ、これから何年経ようとも血筋だけは心配が無くなりました。これこそたいへんな偉業といわれるべきもので、墓碑に中興の二文字を刻むことにしたいと思います。
2、祖父名義の土地は先祖から譲り受けたものではなく、全く本人の働きで買い求めたものですから、後々売ったり質に入れたりせず、曾孫の弘三の名義にして弘三が一人前になるまで親族が管理します。
3、その他の祖父名義の財産も親族の管理とし、毎年の旧正月に集まってその運用方法を協議することにします。

寿太郎長男安八郎義澄は跡を継ぎ、貞五郎は母の実家平川家に、俊太郎は窪屋郡倉敷町(倉敷市)の東中島屋大橋家の養子となっています。安八郎の跡は長男弘三早世により次男の昌二郎が嗣ぎますが、昌二郎の男子二人も相次いで亡くなり、乙之助の男子二人も亡くなって絶家となりました。

明治十四年の誓約書では、血筋が絶えることだけは心配ないと書かれています。
なるほど、この田邉家の血脈は、他姓を名乗る多くの人々に現在もなお引き継がれてはいますが、不幸にして田邉姓を名乗っている者はひとりもいないのです。

本家

弥三右衛門宗悟――+――又兵衛宗幸――三郎右衛門義近――杢左衛門宗賀
明暦4      |  元禄4    享保8      明和5 
馬越氏     |  室渡氏
         |
         +――万
            中島信行妻

分家

三郎右衛門宗勝――+――安右衛門宗繁――又市義房――和右衛門親義==和右衛門義雄――寿太郎義質――+
貞享5      |  元文2     宝暦4   平川氏     溝手氏     慶應4     |
二階堂氏    |  室馬越氏    室溝手氏  文化9     明治14    室平川氏   |
         |                室家女     室荒木氏           |
         +――女                                    |
            二階堂行道妻                               |
                                                 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――安八郎義澄 ――+――佐登
|  明治18    |  早瀬秀五郎妻
|  室藤村氏    |
|          +――弘三義弘
+――貞五郎     |  明治29
|  平川家嗣    |
|          +――昌二郎   ――+――万亀男
+――為吉      |  昭和24    |  昭和20 
|  名越家嗣    |  室幡中氏    |
|          |          +――哲士
+――俊太郎     +――貞          大正15 
|  大橋家嗣       仲田左右次妻

+――乙之助   ――+――和太郎 
|  明治36    |  昭和49
|  室大月氏    |
|          +――惺一
+――小槙      |  昭和48 
   江田廣太郎妻  |
           +――俊
              家嫁

私は祖母(清水多喜野、小槙の娘)からこの家のことをよく聞いていました。
田邉家最期の物語はいまでも忘れる事が出来ません。跡を嗣ぐべき息子が、自分で撃った銃の弾が近くの物に当たってはね返り、額の真ん中を打ち貫いたというのです。おそらく事故で亡くなったのは万亀男のことではないかと思います。
上記、田邉如瓶の四人の孫たちが記した誓約書を踏まえてこの事件を振り返ると、運命の神が田邉家を狙い撃ちしたように思えて仕方ありません。

自分で系図の絲を辿ってみると、祖母の母、即ち私からみると曾祖母の実家だったことが判り、歴史の表舞台で様々な活躍もあったことを知りました。しかし、既に絶家し、次第に歴史から消え去られようとしているのは残念に思います。


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