河原家
久米南条郡下弓削村



伊賀家の家老河原太郎右衛門の弟帯刀は男子がいなかったので、娘に伊賀久隆の子与三左衛門を婿養子として迎えました。久道は宇喜多家の没落後、弓削村に居住しています。
二代弥次郎隆房の弟与三左衛門隆則は福渡に住み、その子二郎左衛門隆次は建部村に住んでいます。

三代善兵衛惟房の子善右衛門は、大庄屋を務め、たくさんの溜池や道路の新設、補修、佐良川の改修築堤などの公共事業に資産を投じましたが、藩の家老の怨みをかって隠田を持っているという冤罪で貞享二年四月二十六日に処刑されました(享年四十九)。この処刑の本当の理由は不受布施内信であったと云います。


伊賀
河内守兼隆――兵庫頭行隆――伊勢守勝隆――伊賀守久隆――+――与三郎久家
                            |
                            |  河原
                            +――与三左衛門久道――+――弥次郎隆房――善兵衛惟房――+
                                        |  寛永7    寛文11   |
                               室河原氏     |  室      室      |
                                        |                |
                                        +――与三左衛門隆則       |
                                           福渡・建部河原家祖     |
                                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――弥右衛門道重――+==弥次郎家得 ==伊右衛門光寛――祐右衛門道義――弥次郎信行==c太郎 ――+――鶴太
|  元禄15    |  河本氏     義孝嫡男    文化10    天保9    明治15  |  昭和2
|  室田村氏    |  寛保3     天明7     室       室      室     |
|          |  室家女     室近藤氏    室菱川氏                 +――半平
|          |          室神崎氏    室大亀氏                    千葉家嗣
|          |                  室秋山
|          |
+――善右衛門    +――弥右衛門義孝

墓地に、
「元禄十五年☆月◇日」とだけ判読できる五輪塔があり、同家の位牌に、
「常種院法秀居士 元禄十五年☆月◇日享年八十五」
というものがあるので、これが四代弥右衛門道重に相当すると思います。また、
「圓了院妙慧禅尼 宝永七年三月九日 山城醍醐田村壱岐守女 施主河原弥右衛門」
という墓碑があり、これが道重妻に相当すると思います。施主の弥右衛門は弥右衛門義孝に相当すると思います。



弥右衛門義孝は森家支配の頃に大庄屋を勤めましたが、土井下総古河藩主土井大炊頭利里が久米南条郡内三十ヶ村を領有したときに、下弓削村に役所を置き、安永五年に伊右衛門光寛が、同九年に祐右衛門道義を大庄屋に任命しました。藩から遠い飛び地であるので、地元に内情に詳しい有力者を責任者に取り立てたもので、大庄屋といったり代官と云ったりしました。
墓地に、
「牧山傳脩之墓 牧山順左衛門 土井候之臣 宝暦六年*月*日生肥之唐津 文政九年*月*日七十一才 葬作州弓削」
という墓碑があります。下総古河藩は、下総佐倉より秀忠・家光期の大実力者である老中土井利勝が十六万石の大封で入りましたが、四代で十万石まで減封となり、利久で無嗣絶家となるところ、実兄の利益が志摩鳥羽七万石を与えられ存続します。その後利益は肥前唐津へ転封となり、利実、利延、利里と続いてまた下総古河に復帰しています。肥前唐津の出身者が出張所勤務を命じられて任地で死去、同僚でもあり世話人でもあった河原氏の墓所にひっそりと埋葬されています。

弥右衛門義孝――弥三右衛門敷房――+――弥右衛門惟粛――正蔵美兼
享保16    天明1      |  寛政7     天明4
室清水氏    室難波氏     |  室中島氏
                 |
                 +――多平次経豊
                 |   難波家嗣
                 |
                 +――佐左衛門清稔
                  |  山崎家嗣
                 |
                 +――文兵衛武兼 ――俊助  ――+――女
                     文化12    天保3   |  弘化4
                     室遠藤氏    室北村氏  |
                                  +――弥五郎経治――類助  ==熊次郎  ――+
                                     明治9    明治41  松岡氏    |
                                     室      室山本氏  昭和20   |
                                                  室類助長女  |
                                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――次雄   ――秀年
|  昭和53   平成5
|  室松岡氏

+==光雄
   直原氏
   昭和57
   室熊次郎娘

弥右衛門義孝は万治二年に大庄屋職を拝命、延宝二年、森伯耆守長武祝賀のため江戸まで出向いています。
墓地に、
「**院妙語霊 宝暦六年*月*日七十才 河原敷房母清水藤兵衛娘」
という墓碑があり、これが義孝妻に相当すると思います。弥三右衛門敷房以降は碑文が詳しく、敷房には四男子があり、嫡男は弥右衛門惟粛、二男は赤磐郡赤坂町五城村伊田(御津町伊田)の難波家に入って、多平次経豊と名乗り、三男は久米北條郡西川村大庄屋山崎常秀の養子となって、佐左衛門清稔と改めてやはり大庄屋を勤めています。この人の墓碑は河原家墓地にもあります。

善右衛門――+==忠右衛門
貞享2   |  金谷氏
      |  室家女
      |
      +――女
         平尾頼吉妻

善右衛門には子がなかったので、周匝の金谷家から忠右衛門という養子を迎えていました。忠右衛門も養父に同坐して死刑となりました。全間の平尾治郎兵衛頼吉妻が弓削村河原善七娘とあり、善七=善右衛門ではないかと思います。
その他、紙工の河原家も一族のようです。


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