秋山家・綿屋
和気郡和気村





旧片上鉄道本和気駅の真東にある日蓮宗本成寺から山裾伝いに墓地が散在しています。主だった墓碑は大きな木と草に覆われ、蜂の巣もあって近づき難かったのですが、ある時から、足を踏み込むことが出来るようになりました。

備前岡山藩の領内には、岡山城下町の他在町と呼ばれる地方町が十三ありました。そこは港や宿場があり、商売や酒造が許可され、両替商や本陣が設けられた所もありました。本和気はそういう在町の一つでした。
つまり、商売人は農村には不要として、農村には「ざるふり」という「ざる」を担いだ行商人だけが商品を売って廻ることが許されていたのです。寛文八年に「ざるふり」が商うことの許された商品は、アミ、雑魚、塩、あらめ、茶、油、明し松、ひしゃく、二ツこぎ、ゆりぶた、農具の十一品目に限定されていました。天和三年には機道具などの追加がありましたが、農村の日常生活のほとんどが自給自足でまかなわれていたようです。
「商売人は農村には不要」というのは建前で、実際は士農工商の身分制度を徹底させるために、住み分けさせたものだろうと思います。

農村の産物は城下町の商人に運ばれるのが建前でしたが、農業生産高の増加と共に、近隣の在町商人が中心となって取引を行うようになりました。岡山県南に干拓造成された新田地帯では、獲れた綿を原料に有力者が織物業をはじめました。また、塩田開発が進んで塩の生産量も急激に伸びて行きました。このような生産物を在町商人達が一手に扱うようになりました。

秋山家の場合もその屋号が語るように綿布問屋をはじめとして両替商となり資産を拡大していったものと思われます。当然、綿布を一手に買い集めて他国へも売るという権利を藩から許可してもらわなければなりませんので、相応の献金をしたたと思われます。政治の後ろ盾を得て商売人が急成長するという構図は既に当時から完成していました。

そのうちに藩の求めに応じる献金・貸金の額も増大し、見返りとして苗字御免、帯刀御免などの武士の資格を与えられるようになります。ある資料に依れば、秋山家から岡山藩への献金・貸金の額は、明和二年に百五十貫(久三郎廣當の墓碑文に記されている)、安永八年に二百五十貫、合計四百貫で、一貫を二十両として計算すると、記録に残っているものだけでも八千両もの大金になります。

本成寺の門から南側の共同墓地は、北から、恒次、長谷川、岸本、それに続いて秋山家の墓地となっています。
寺の境内へ入る手前には土塀で囲まれた墓地があり、この中には、岸本、秋山、長谷川、神崎、和田などの墓地があります。
このうち、岸本家は境内に一番近い場所に墓所を拡げ、古い五輪塔、籃塔、位牌型の墓碑などが並んでいますので、相当な勢力家だったと思われます(岸本を岸元と彫ってある墓碑もある)。和田は本成寺の南に続く墓地の中腹に五輪塔や大きな位牌型墓碑を並べています。

秋山姓の墓碑は土塀の中で大きく三箇所に分かれていて、入ってすぐのところ、右の奥、それと岸本家の墓地に隣接した南側です。

土塀墓地右の奥にある秋山姓の墓碑には、組屋傳八郎妻(享保二十年歿)、秋山傳八郎(寛延三年歿)という墓碑が並んでいたり、岸本家に隣接する列には、秋山傳八郎母という墓碑や秋山仙右衛門造立という墓碑が並び、組屋という屋号の株家もあったことが解ります。

更に、境内に入り、堂の横にも秋山姓の古い墓碑がいくつかあります。
寺境内へ入る手前の土塀墓地は、山門南側の草木で覆われていた墓地に続く前代の墓地であることが判りました。

仙右衛門廣義==市郎右衛門廣斗――+――彦兵衛廣武
明和4     岸本氏      |  宝暦12
室金谷氏    元文4      |
        室山形氏     +――久三郎廣當――+――廣雄    ――仙右衛門廣虎――+==勝平廣勝
                    文化2    |          天保14    |  大國
                    室太田原氏  +――廣次              |  明治6
                           |                  |  室廣虎長女
                           +――女               |
                           |  河原道義妻           +――仙蔵廣政 ――+
                           |                     明治29   |
                           +――女                  室尾崎氏   |
                           |  岩崎小三郎妻                    |
                           |                            |
                           +――二女子                       |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――廣斗
|  片山家嗣

+――充夫
|  石川家嗣

+――八重
|  金谷秦太郎妻

+――賢夫    ――雄太郎
   大正13
   室浪上氏
   室前川氏

廣義の妻は周匝村金谷助兵衛娘、廣斗は同じ本和気村の岸本氏ですが、寺の境内へ入る手前にある土塀で囲まれた墓地の岸本家だろうと思います。岡山城下の豪商で町惣年寄なども勤めた仁尾屋入江家の分家(唐津入江)を嗣いだ平兵衛軌正が和気郡和気村岸本正喜の子となっています。城下町と在町の有力商家同士の縁戚関係と理解出来ます。また、岡山城下の豪商出身の岸本蓑山という文人がいますが、この岸本家は和気郡天神山城主遠江守浦上宗景裔と云っていますので、岡山城下と本和気村の両岸本氏は同族であると思われます。

廣當の墓誌によれば、先祖は甲斐源氏の秋山紀伊守光明で、武田太郎信勝に仕えていました。武田家(勝頼)が天目山で滅びた時、光明とその嫡子光定は一緒に戦死しましたが、次男光信は逃れて備前国和気村へやって来ました。それから何代か過ごして、祖父仙右衛門廣義が一生懸命働いて近郷で名を知られる家となりました。妻は金谷氏ですが、子が無かったので同村の岸本氏を養子に迎えたのが市郎右衛門廣斗です。廣斗は山形氏を妻として、二男一女をもうけました。長男が廣武で、次男が廣當になります。父廣斗と兄廣武が早くなくなったので、廣當は祖父の後を承けて家運を盛り上げ、明和二年には銀百五十貫を藩府に献上して同三年には藩命で五十口米の給与をもらって帯刀を許可され準県下吏となりました。同四年に祖父が亡くなり、同五年には準郡医官となり、安永八年にはまた銀二百貫を納めて歳俸米二百五十苞を加えられて中小姓に任じられました。享保十八年に生まれ、文化二年五月十二日に享年七十三で亡くなりました。妻は津山の大田原氏で、二男四女をもうけ、長男廣雄は病弱のため跡を継がず、次男廣次は早世、従って廣雄の子廣虎が跡を嗣ぐことになりました。四女子の墓が全て建っていて、幼くして亡くなった娘、嫁に行かなかったか復籍したのか実家で死去した娘、作州弓削の河原氏に嫁いだ娘、播州赤穂新濱岩崎氏に嫁いだ娘となっています。廣雄、廣次の墓碑は見あたりません。
廣虎は長女に尺所大國武助四男勝平を婿養子として迎えています。大國家も、綿屋と相前後して、藩への多額献金で士分待遇を受けていた家です。
秋山賢夫夫妻の墓碑は長兄片山廣斗と次兄石川充夫によって建てられています。賢夫は廣政の第六子で故有って家を嗣ぎ、農科大学実科卒業後、埼玉県技師となって殖林及治水を十七年ほど担当しました。中でも秩父檜林殖林では功績がありました。大正十三年に浦和で病歿(享年四十七)、妻は浪上氏で一子雄太郎を産んで間もなく死去(享年二十五)、後妻は前川氏ですがこの人との間には子はありませんでした。
上記のようにたいへん繁昌した商家には間違いないのですが、現在のお墓の様相をみると、雄太郎で絶えたか、或いはそのご子孫が健在であっても多郷に新しいお墓を建てられたため和気の先祖墓を参られることもなくなったのだろうと思われます。

綿屋秋山氏の先祖は甲斐武田家の重臣秋山紀伊守とのことですが、岡山県内には甲斐武田家に縁の家がいくつかあります。和気郡佐伯町佐伯の武田氏、岡山市尾上の則武氏、岡山市首部の氏、浅口郡船穂町柳井原の内藤氏ですが、山梨県と岡山県という遠く離れていることを考えると、甲斐武田家に縁の家が多いと言えそうです。

秋山紀伊守から廣義に至るまでの系譜は不明ですが、岡山県歴史人物事典に秋山太郎右衛門という人の紹介があります。池田家文庫「除帳」を参考にしたものですが、本成寺境内に入って直ぐ右にある堂の横に「宝永三年歿、秋山太郎右衛門」という墓碑があります。おそらく、綿屋の直接の先祖か本家筋になり、下役人を勤めた太郎右衛門の墓碑ではないかと思います。

下記の金右衛門廣重と上記の系の接続点は不明ですが、互いに隣接した墓所になっていること、諱の通字「廣」が共通していること、共通の親戚関係を持つことなどから互いに株家になることは間違い有りません。

金右衛門廣重――+――宗七郎
宝暦1     |  文化5
河原氏    |
        +――孫三郎廣富   ――+――半之介
        |  寛政12      |  寛政6
        |  室         |
        |  室         +――孫三郎廣義――+――吉蔵廣茂
        |               文化7    |  嘉永5
        +――美加           室當麻氏   |  室江田
           河原與惣左衛門妻            |
                               +――庄左衛門
                               |  尾崎家嗣
                               |
                               +――富治郎
                                  文化8

御津郡建部町の市場屋河原与惣左衛門伯之娘が和気郡和気村秋山金右衛門妻となっていて、その孫與惣左衛門妻美加が和気秋山孫左衛門娘(嘉永二年歿年五十七才)となっています。「宝暦元年歿、金右衛門廣重」という墓碑があり、隣に廣重妻真女之墓(寛政六年歿)という墓が建っています。
和泉屋江田家初代喜三治の娘が和気の秋山吉蔵に嫁いで後離別したという記録があります(文政四年歿)。このことが念頭にあった上で、江田家から大村家と血族を遡り、更に河原家へと調査を拡げる課程で再度和気の秋山家との縁を知りました。また、和泉屋初代喜三治の実家になる駒井家の過去帳に記された人を捜して周匝の金谷氏の系譜を探り、その時にまた和気の秋山家との縁が見つかりました。墓地の場所も金谷家のご子孫のお一人からお聞きしたわけですが、こういう経緯で秋山家の系図に興味を持ちました。

実際に秋山家の墓地を捜すと、「秋山吉蔵廣茂、嘉永五年歿年六十四 備中帯江庄左衛門造立之」という墓碑が見つかり、妻の墓碑はありませんでした。
倉敷市加須山の尾崎庄左衛門盛広は和気村秋山孫三郎次男で、安政元年に五十四才で亡くなっていますので、年代を合わせると上記のようにつながるはずです。
また、岡山城下西大寺町にあった片上屋當麻家の墓碑を読むと、治郎兵衛尚芳(寛保二年生)の長女が「為秋山某之妻也」とあります。當麻家の系図上では、尚芳長女の甥孝左衛門妻が秋山吉蔵の妻となった人の姉妹になりますので、秋山孫三郎廣義の妻(天保三年歿)は當麻治郎兵衛尚芳長女ではないかと思います。


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