数田(難波)家
都宇郡早島村





倉敷市早高如水庵に高沼片山一族の墓碑を訪ねたときに、そのほとんど無縁状態の墓碑群に出逢いました。

数田は「かずた」と読んみますが、たいへん珍しい姓です。しかし、そのルーツを辿ると、岡山県ではありふれた「難波(なんば)」姓でした。
難波本家は半治郎という人が宇喜多家臣九六〇石の給料を取る物頭でしたが、関ヶ原の乱後に断絶。紋所は本家一菱、次男家重菱、三男家三花菱と伝えられています。

正遠の本国は美作、備前國で生まれて宇喜多秀家臣戸川肥後守に仕えたとあるので、出身地の縁で仕官したのではないかと思います。正遠の妻は同じ宇喜多家臣花房志摩守に仕える難波清四郎の妹です。正遠は関ヶ原の乱以後に一旦児島郡郡村に退き、その後備中庭瀬に住んで名を庄三郎と改めて浪人として過ごしたそうです(葬撫川村金花山極楽寺観音院)。
甚兵衛正長(葬撫川村観音院)は庭瀬で酒造株を買い求めて造り酒屋となり、家も隆盛で裕福になりました。正長妻は箕島村山本九左衛門娘、元禄六年に九十二才で亡くなっています(葬高沼庵室)。

正久は遊興が過ぎて身代を傾けることになり、家財道具を売り払い、高沼新田を買い求めて移住しました。正久妻は藤田市左衛門娘です(葬撫川村観音院)。藤田市左衛門も浪人でしたが、榊原飛騨守と懇意であったので、島原の乱平定に赴くことになり、そこで大手柄をたてて細川越中守に千石で仕えることになりました。男子一人、女子は九人もいてそれぞれ備中国内の某家へ嫁ぎましたが、嫡子助之進とその子十郎右衛門は熊本で討死して家名は断絶となりました。

正久嫡女お梅は、川辺村塩尻孫介妻となりましたが、孫介江戸出張のため二女一男とも数田家で預かりました。お梅は元禄三年に死去して長女と共に高沼庵室に葬られています。次女は黒谷村喜右衛門妻、男子喜三郎は出奔しました。

彌右衛門正久の号及び謚に付けられた「如水」が、如水庵(=高沼庵室)の起源で、当時の難波(数田)家の勢力が窺われます。庵室の仏壇には早島戸川家代々の位牌を安置されています。

市左衛門知之は庭瀬で生まれています。高沼新田開発にあたって、大坂の具足屋七左衛門との交渉で資金繰りに功績があり、領主戸川安明より苗字帯刀を許され、高沼屋敷地三反四畝を免税地扱いとされました。この時、「新田数々の田地」から「数田」と名乗るように命じられたようです。また、大坂商人大和田屋仁兵衛にも世話になったため、暫く大和田氏とも名乗っていたようです。その後も戸川家から重用されて五十石の給料を貰うまでに出世しています。家紋は内之内輪違と改めたようですが、墓碑では確認できません。知之妻は、倉敷市史由緒書によると、児島郡福田村次兵衛娘お峯とあり姓は不明です。次兵衛が早世して、妻は娘を連れて高沼村の九郎右衛門後妻となりました。長女お市は天城家中布施三譽へ嫁ぎ、次女は知之妻となりました。お市は、布施家で女子一人を生みましたが、夫、娘共に早世したので、復籍した後に、庭瀬家中山崎善助へ再婚しました。ここで男子三人女子二人を生みます。善助が早世の後は嫡子甚之助家督を相続しました。次男勝之助は浪人、母と娘おた世、末子小伝治は数田家で引き受け、娘は帯江平松庄右衛門の妻となり、小伝治は江戸で中小姓勤めして後足守家中増田伊右衛門の養子となっています。もう一人の娘お力は備前家中香取七之進妻となりましたが子どももなく早く亡くなりました。

難波
彌右衛門正遠――+――甚兵衛正長――+――加年
元和8     |  万治2    |  小松屋八郎右衛門妻
室難波氏    |  室山本氏   |
        |         +――彌右衛門正久――+――梅
        +――梶      |  元禄13    |  塩尻孫介妻
           某氏妻    |  室藤田氏    |
                  |  室       |  数田
                  |          +――市左衛門知之 ――+――市
                  +――須那         享保7      |  布施三益妻後
                  |  某治兵衛妻      室和田氏     |  山崎善助妻
                  |                      |
                  +――傳兵衛                 +――友
                                         |  讃岐屋忠右衛門妻
                                         |
                                         +――彦助正興――+
                                            安永2   |
                                            室津田氏  |
                                                  |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――縫
|  水野八郎左衛門妻

+――本
|  明石五右衛門妻

+――小膳成雄
|  笹岡半右衛門嗣

+――仲右衛門正利――+――文太郎正職
|  寛政5     |  室業合
|  室田中氏    |
|          +――時太郎正業  ――+――彌右衛門正精――+――耕之輔正方
|          |  文政11     |  文久3     |  嘉永2
+――織       |  室中原氏     |  室岡氏     |
   森彦三郎妻   |           |  室中嶌氏    +==左平太正美――女
           +――十郎正國     |  室業合氏    |  業合氏    岡本養軒妻
              藤井家嗣     |          |  室正精娘
                       +――千々五郎正亀  |
                          中原分家興   +――来介正永 ――+――多年子
                                     大正5    |  河中常臣妻
                                     室近藤氏   |
                                            +――春魚正臣
                                            |  昭和22
                                            |  室坂野
                                            |
                                            +――菊野
                                            |  水河序平妻
                                            |
                                            +――初瀬
                                               飯田稔甫妻

正興の墓碑には、藤原正興と彫られていますので、この一族の本姓は藤原氏だと判ります。
正興妻津田氏の墓前に施主水野八郎右衛門妻という灯籠がありますので、正興娘が水野八郎右衛門に嫁いでいると思われます。

正利の妻文子は、備前候医長万代意徳(本姓田中)の長女で母垣見氏、年廿一嫁早島戸川公世臣数田府君諱正利生三男長正職早死次正業字仲教承家季正國・・・とあります。備前藩医万代家は片上の有名な医家ではないかと思います。垣見氏は天城藩の家老垣見氏ではないでしょうか。

正業妻貞子は玉島上成の中原貞固(本姓藤井、丹州亀山候臣)の娘で、母は中原氏、年十七才嫁早島世臣数田君正業生二子長正心次正亀とあります。同じ墓地内で年代を合わせてみると、彌右衛門正精が正心に当たると思われます。正精の墓碑は正方歿後の建立なので、正精と後妻の間に生まれたのが正美と理解しています。

彌右衛門正精の妻美子は、京都の岡讃岐守倫美(皇朝音博士)の娘で、母は観善寺長崎人とあります。年十五で早島世臣数田正彦妻となり二子を生んだ。長子は幼くして亡くなり次が正方であると記されています。この墓誌は岡田藩佐野元方が作文して子の正方が立てています。中嶌氏の墓碑にも正彦後妻と彫られています。

以上、数田家の歴史を整理してみると、もとは難波姓を名乗っていて、戦国時代末期には或る程度の勢力を持つ武士でした。関ヶ原の乱で負け組になって浪人しますが、残った資産を運用して、その才覚で家は裕福となりました。更に、それを元手に新田開発に手を出して成功、新田領主の戸川家から武士に取り立てられてました。この数田家の歴史を眺めるだけでも、士農工商という江戸時代の身分制度も実は曖昧であったことがわかります。



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