亀山家・油屋
尾道市
備中国賀陽郡八田部村(総社市総社)の戎屋亀山五郎兵衛式綱の子助四郎春綱と庄左衛門冬綱の兄弟は備後国尾道へ分家しています。墓地は尾道市信行寺にあります。
分家上油屋 助四郎春綱――+――九兵衛正綱 ――+――正左衛門正明 宝永5 | 室福武氏 | 室竹内氏 | +――九兵衛 | | | +――女 | | 小川作右衛門妻 | | | +――女 | 吉井藤三郎妻 | +――助四郎好綱 ――+――助四郎有綱 ――+―― | 室亀山氏 | 寛政6 | | 室加藤氏 | +――彦蔵 | +――伊三治 橋野家嗣 +――女 | 吉井藤三郎妻 | +――女 亀山通知妻
「本譽寿源 宝永五年助四郎
往譽知生 正徳四年」
という墓碑の他には
「春綱一族之墓」
という他には何も刻まれていない累代墓しかありませんので、倉敷市史をもとに判る範囲を記しています。助四郎春綱は寛文四年に尾道へ分家して西油屋と称します。九兵衛は分家して上油屋と称しています。
笠岡市の西明院橋野家の墓地に
「彦蔵諱懐珍 本姓亀山西備尾路助四郎有綱第五子也年十五橋野要蔵輝珍養以為嗣文化三年病卒二十一歳」
というものがあります。
助四郎の弟庄左衛門(五郎太夫)は延宝五年十八才で尾道に来たと云います(東油屋)。金融、塩田経営などで次第に家産を増やし、灰屋橋本家に次ぐ資本家となりました。文化・文政の頃からは灰屋に先んじて町年寄に登り詰めています。これは士綱の人格によるところが大きいと云われます。慈善救恤に多額の資金を投じたことが、藩主と町民の信用を集めました。因島中庄に豊田郡小田村の庄九郎が手を付けていた新田工事を受け継いで工事を完成させました(正徳三年、油屋新田十三町四反)。
庄左衛門冬綱――+――女 享保9 | 亀山好綱妻 室宮地氏 | +==六郎右衛門通知――+――女 亀山充綱男 | 小川藤左衛門妻 享保18 | 室亀山氏 +――女 | 渋谷惣右衛門妻 | +――六郎右衛門尚事――本助士綱――+==道遥春斎 ――+――男 安永5 文政10 | 安原氏 | 室富島氏 室島居氏 | 文久3 +――徳平之綱 室伊藤氏 室真鍋氏 | 室士綱長女 文政10 | +――元助長綱 ――+――本助継綱 | 文久3 | 文久3 | 室川口氏 | | +――庄左衛門東逵――+ +――男 | 明治32 | | | 室 | +――女 | | | +――利綱 | +――女 | 島居家嗣 | | 津川良謙妻 | | | +――隆 | +――里江 橋本徳恭妻 | | 片岡経雄妻 | | | +――女 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――安綱 ――慶綱 ――某 大正3 大正1 昭和48 室 室 室
冬綱の妻は宮地所左衛門娘で、住屋島居家の先祖が宮地姓ですから、所左衛門も尾道先住者と思います。六郎右衛門尚事(良重)の姉妹が嫁いでいる小川、渋谷氏は戦国時代からの歴史を持ち、尾道三代豪商に挙げられる家の一族ではないかと思います。尚事妻は富島惣佐娘とあり、浅野家の信を得ていた豪商天満屋富島家の一族でしょうか。江戸時代になってしばらくしてから尾道に入ってきた油屋が急速に頭角を現してきた背景には、順調に家産を増やし、代々人格者が輩出したというだけでなく、戦国時代にさかのぼる備中亀山家と尾道商人との付き合い(おそらく共に毛利家臣として)、信用関係があったように思います。
尚事の後妻千世は備後福山水野家の家臣伊藤盛辰の第三女です。尾道組頭を勤めていた尚事に嫁いで本助士綱をもうけますが、本助が七才の時に夫を失い、一人で家政を執ったようです。嗣子士綱は二十四才で組頭となり、三十才で年寄役に就任、これらは皆母千世の後見があってのことだと碑文に刻まれています。千世の実兄玄碩は他家を嗣いでしまったので、実家の父母が亡くなった後相続人が居なくなりました。そこで、澁谷宗茂の次子賀辰を養子にして伊藤家の祭祀を託しています。
なお、紀卿君墓の傍らに建てられた碑に、頼惟柔(杏坪 天保五年歿七十九才)が寄せた文があり、
「君七才喪父諱尚事為嫡母伊藤氏所養事之如真生母」
とあって、伊藤千世は士綱の義母であると紹介している郷土史書があります。
ところが、尚事の妻は宝暦五(1755)年二月二日に亡くなっていて、士綱は明和七(1770)年閏六月二十三日生、士綱夫婦の墓碑には「妣伊藤氏」と明記されています。
亀山家の墓碑を調べたついでに信行寺の境内墓碑を眺めて歩いていると、賀辰夫婦の墓碑を見つけました。千世の碑文に、伊藤家は水野家の家臣とありますが、盛辰は伊藤家の改易で浪人した旧士族ではないかと思います。
士綱(紀卿)は尾道最初の歴史書である「尾道志稿」を著しています。島居實斎、菅茶山、若槻幾斎などに師事して学問を修め、三十二才で戸長、藩への献金によって俸禄を貰い、大戸長に進んで、苗字の公称を許されましたす。新修尾道市史に文政元年以降の町役人の紹介があります。十四町年寄役(万治より文化まで)の中に「油屋本助」、弘化三年町役人序列では、町年寄上席に「亀山本助」の名が確認できます。
士綱は妻品との間に二男四女をもうけ、長男長綱が相続、別に安原氏の子道遥を長女の婿養子にして分家させています。季女は福山津川良謙に嫁がせました。
品は同郷島居祐二郎忠利の次女ですが、文化三(1806)年に三十三才の若さでなくなりましたので、のちに京都東本願寺に仕えていた真鍋了瑞の娘菊を後妻に迎えています。菊には二女があり、備中下道郡岡田村の片岡経雄後妻里江が「備後尾道町亀山元助長女明治十九年歿年七十四(1886-74=1812)」とありますので、里江は士綱と菊との間に生まれた最初の女子と解釈しました。
春斎のあとは、次子之綱の墓碑が確認出来ただけで、よく判りません。
長綱の妻竹は三原の川口六蔵伴亀の娘です。
長綱のあとは継綱早世(享年三十六才)の跡をうけて東逵が相続したと思われますが、以降は累代墓で続柄、配偶者の情報など判りません。ただ、現代に至るまで子孫が続いていることは確認できます。
利綱は島居家の墓誌から確認しました。隆は慈観寺の西灰屋橋本家に「亀山氏四女隆 明治二十一年歿年五十七才」とあるので、背景にある島居家と橋本家との縁戚関係などを考慮して挿入してみました。長綱に何人の子が居たのか不明です。
ホームページへ