橋本家・灰屋
尾道市
出目は明かではありません。灰屋という屋号からもとは肥料に関係する仕事をしていたのかも知れません。岡山城下町にあった同じ屋号の河本家も江戸時代に大変栄えた豪商でした。灰を扱う仕事は一攫千金の機会があったのかも知れません。
江戸初期寛永頃の御地詰帖では、住屋がかなり家数が多い、即ち分家が多かったのに対して、次郎右衛門家と灰屋後家の二軒しかありません。但し、一家は二十余人もの大所帯で、当時からかなりな大店であったらしいことは判ります。
後に、灰屋の商人株は次郎右衛門(本家、東)と吉兵衛(加登灰屋)の二本立てになります。次郎右衛門は延宝四年に広島浅野藩主に米千石を献納して十人扶持を与えられています。尾道には中世からの居残り商家もあったので、それらが握っている利権を切り崩して行くためには時の政治権力を抱き込む必要があったのではないでしょうか。藩への献金を重ね、やがて町役人の職に就くようになりました。
本家は米の卸問屋、綿問屋、加登灰屋は質屋、両替商、酒造業などで、分家吉兵衛はこの商業資本を主に土地投資に向けています。即ち、近隣の塩田、新田開発で、沼隈郡高須村(尾道市)新田や安芸郡広村(呉市)新田、尾道埠頭の東に隣接した灰屋新田などへ投資しています。
宗家東灰屋の流れは次のようになります。上写真左は初代正栄夫妻の墓碑です。
次郎右衛門正栄――次郎右衛門信孝――+――次郎右衛門 寛永1 承應2 | 分家加登灰屋 室 室 | +――三郎右衛門正直――+――次郎右衛門安利――次郎右衛門信安――次郎右衛門栄光――+ | 延宝6 | 正徳4 安永3 安永7 | | 室 | 室 室 室西山氏 | | | | +――久左衛門 +――直継 | 分家橋本屋 分家向島干浜 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――次郎右衛門正甫――三郎助正義==長三正禮――太吉正安――+――温 ――伸二 文化8 明治7 小川氏 昭和8 | 昭和13 昭和34 室上月氏 室小川氏 明治34 室 | 室 室 室佐藤氏 室橋本氏 | +――吉之助 昭和17
栄光=信好でしょうか。信好妻の墓碑は判りますが、信好と刻まれた墓碑がなく信好妻の近くに栄光の墓碑があります。両者の生年は十一才離れています。
正甫の妻定は府中上月則方娘です。
三郎助妻滋は世羅郡甲山町の小川専右衛門長女です。正義の跡は、分家加登灰屋徳光長女綱と世羅郡甲山町小川為三郎久忠第二子長三正禮の夫婦が嗣いでいます。
分家加登灰屋(角灰屋)は一族の中で最も栄えました。
次郎右衛門――宗賢 ――長右衛門宗久――専右衛門――吉兵衛徳栄――吉兵衛徳貞==吉兵衛徳聰――吉兵衛徳光――+ 寛文11 元禄3 享保10 宝暦8 明和7 文化5 川口氏 明治35 | 室 室 室 室 室沼田氏 室川口氏 文久2 室尼子氏 | 室 室梶原氏 | 室吉川氏 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――綱 | 橋本正禮妻 | | 分家 +==徳明 | 木村氏 | 明治42 | 室徳光三女 | +――吉兵衛徳清――+――龍一徳弘 大正13 | 昭和43 室尼子氏 | 室大西氏 | +――キク | 橋本乕次郎妻 | +――順子 石井遵一郎妻
初代次郎右衛門は宗家次郎右衛門信孝の長男です。
長右衛門宗久は橋本家中興祖と云われ、たいへんな理財家でした。
徳栄妻は広島沼田氏、徳貞妻は三原川口氏で、その跡を継いだ徳聰(竹下)も同じ家から迎えられた養子のようです。徳聰の妻伊保は東讃高松(香川県)梶原景惇第三女で文化十二年に若くして亡くなり、福山藩吉川氏長女加衛子が後妻に入っています。徳光は文政九年生ですから、母は吉川氏のようです。
伊保の実兄九郎兵衛景照は分家して槙屋と称しますが、このあたりの縁戚関係が白神菅太作成系図から読みとれて興味深いものがありました。
徳聰は始め父の名吉兵衛を襲名、後に荘右衛門と改めています。文人、風流の人としても有名で、「竹下詩鈔」に多くの詩がのこっています。ョ山陽とも親交があり、碁聖本因坊秀策(因島市外浦町出身、本姓桑原)の才能を最初に認めたことも知られています。天保の大飢饉では檀那寺慈観寺本堂の建築工事をはじめて貧民に仕事を与えました。飢饉の時に貧民救済と称して食料を与えたという話はよく聞きますが、仕事をさせて生活をさせたというのはこの時代では珍しい話ではないでしょうか。これは、飢えて仕事も出来ないくらい困窮した状態になる前に講じなければならない対応ですし、ただでものを与えることは、自立する心をダメにして、依存する心を育ててしまうので、社会全体からみるとマイナスです。
徳光(始め徳温)は徳聰長子で吉兵衛と称し、晩年に静娯と改めています。妻美禰は広島の尼子矯第三女で母は保田氏です。
慈観寺墓所北東の一画は徳清(字子純 号海鶴)が創ったものです。徳清は宇都宮竜山について漢学を修めました。明治三十年頃に貴族院議員に選ばれ、六十六銀行頭取、尾道商工会議所会頭を務めて尾道経済界の重鎮でした。向島、三原市和田沖、安芸郡広村(呉市)の干拓を行うなど事業家としても有名です。
龍一は東京帝国大学独法科卒業後、父の跡を継いで芸備銀行(広島銀行の前身)取締役、頭取になりました。他にも尾道鉄道株式会社取締役、ラジオ中国取締役などの要職を兼任し、昭和十七年には市議に当選、同年九月に尾道市長に就任ました。
橋本家の系譜に興味を持ったのは、橋本陽三郎という人が橋本系図の中でどの様な位置にあるのか知りたいと思ったのがきっかけでした。
Eさんからお聞きした話の中に、
「祖父(鳥越)仁三郎の実兄力太郎が矢掛の石井本陣へ養子に行って戻って間野へ行った」
というのがあり、E様は間野家のご子孫へ問い合わされました。その時、
「春治の父は胸上の井上から来た人で、後に離縁となって尾道の橋本家へ行った」
と説明があったそうです。
その後、児島胸上の井上家の系図に、間野家に養子に入った井上陽三郎の甥哲が尾道島居イト婿養子となり同家を嗣ぐという記述を見つけました。
児島八浜の平岡、野田両家の墓碑を調べると、陽三郎の母婦喜と間野與平の母伊保は二従姉妹になることが判りましたので、井上陽三郎が間野與平の娘婿として迎えられたというのは自然な話です。
高戸氏から、
「尾道の橋本家とは親族になり、橋本一族のお墓は慈観寺にあります」
と教えていただきましたので、さっそく訪ねてみました。
「昭和六年二月建之 橋本陽三郎 妻ヒデ」
と刻まれた大きな墓碑はすぐに目に止まりました。
西灰屋
恒次郎徳恭――+――房之助徳斐 明治4 | 明治17 室亀山氏 | +==陽三郎徳正――+――圓 井上氏 | 明治21 | 室 +――乕次郎 ――+――男 昭和42 | 室橋本氏 | 室 | +――女 島居茂妻
墓碑を並べ、E様から戴いた情報などをもとに上記のように書いてみましたが、時代を飛んで享保十七年に六十五才で亡くなった章貞という墓碑もあり、東或いは加登灰屋から分家した家で一旦絶えていたのではないかとも思います。
恒次郎徳恭は諱の通字からみて徳光の弟でしょうか、徳聰の墓前に、恒次郎徳恭と三郎助正義の名を刻んだ石灯籠が建てられています。
房之助徳斐は三十二才で亡くなっていて、妻の墓碑はありません。陽三郎とほぼ同世代の人のようですから、胸上井上系図にある
「尾道橋本房之助養子」
というのは、房之助の準養子となったという意味ではないかと思います。
乕次郎の妻キクは徳清の娘です。
徳光三女多喜に伊豫西條木村丹次第二子を迎えて分家したあとは次のようになります。
徳明 ――+――吉次郎 ――+――恭一郎 木村氏 | 昭和44 | 平成8 明治42 | 室 | 室 室徳光三女 | | | +――浩蔵 | 昭和15 | +――専之助 明治44
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