正宗家・亀屋
和気郡難田村
江戸時代の正宗家は代々網元であり、この辺りの広い土地持ちでもありました。雅明の代までは材木商も営んで財を膨らませ、雅敦、直胤が文人として活躍できる経済的基盤が出来上がっていたようです。
雅敦は多くの狂歌、和歌、俳句を遺しています。直胤は藤井高尚に学び、本居太平に入門しています。画技もすばらしくて有名でした。
雅明以前の古い墓碑は昭和36年の集中豪雨の時に流されて土中に埋まったそうです。
雅明 ――+――経蔵雅敦 ==雅広 ==浦二 ――+――忠夫 ==有三 天保3 | 天保9 安田氏 直胤の子 | 昭和37 丸山氏 室児島氏 | 室岡田氏 明治34 昭和9 | 室清水氏 | 室岡田氏 室岡田氏 | +――女 +――敦夫 ――+――甫一 | 安田彌一兵衛妻 | 昭和33 | 平成9 | | 室渡邉氏 | 室宇賀神氏 +――直胤 分家 | | | +――信子 | +――得三郎 ――+――猪早夫 | 昭和37 | | | | +――幹夫 +――律四 | 昭和36 | +――五男 ――+――昭男 | 丸山家嗣 | | +――英二 | | | +――有三 | +――乙未 | 辻村太郎妻 | 昭和49 | +――巌敬 ――行人 | 平成5 | 室 | +――清子 山尾家に嫁
雅敦の妻鹿野は養子雅広が奢侈であるために離縁して、分家の浦二を養子に迎えています。この浦二、美禰の夫婦からたいへん優秀な子供が生まれています。
忠夫(白鳥)は自然主義の小説家、劇作家、評論家として有名です。
敦夫は国文学者で歌人、兄が上京後は家を守りながら、岡山で第3高等学校医学部(現在の岡山大学医学部)眼科教授井上通泰に歌学の指導を受けています。中古の印刷機械まで購入して歌学雑誌や古典全集などを刊行しています。自宅の裏に建てた「正宗文庫」には収集した貴重な書物、研究資料など2万点余を収めました。その妻貞は敦夫の右腕となって書籍や資料の整理、印刷の仕事にも関わり、長男甫一と共に敦夫の協力者でした。正宗家に嫁いで何が一番辛かったかと聞かれて、嫁に来て直ぐに木綿の着物を着せられたのが辛かったと答えたことがあるそうです。実家の父綱太は地方政治家として活躍した人でしたので、質素倹約に努めていた正宗家よりもやや派手な生活をしていたと思われます。
得三郎は東京美術学校(現在の東京芸大)を出て洋画家となり、二科会設立に尽力しています。律四も洋画家ですが早世しています。五男は丸山家に入って実業家となりました(日本パイプ会長)。巌敬(げんけい)は植物学者(元金沢大学教授)、乙未(おとま)は津田英学塾に進み、地理学者辻村太郎(元東大教授)に嫁いでいます。清子は香登教会溝手伝道師の長男に嫁ぎ、夫と死別後に神官山尾氏に再嫁しています。
正宗分家隅田屋の流れは、
柳平直胤――+==逸郎直保 文久2 | 播州赤穂郡塩屋村肥塚碩庵次男 室某氏 | 大正2 室杉本氏 | 室 | +――浦二 本家嗣 | +――保三郎 ――+―― 一 明治43 | 昭和34 室中西氏 | 室久原氏 | +―― 進 | +―― 助
直胤と最初の妻の間に子がなかったので直保を養子に迎えたようです。後妻は早島の杉本文景娘です。
保三郎は軍医中佐、その長男一(はじめ)は東北大学医学部教授、次男進は富山大学教授、3男助(たすく)は近藤家を嗣いで大阪営林局長を勤めました。保三郎死後、その妻は3人の子を連れて妹尾家に後妻として入りました。
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