藤井高利家
賀陽郡宮内村





岡山市と倉敷市のほぼ中間、吉備の中山(鯉山)の麓に吉備津神社という古社が鎮座しています。四道将軍の1人大吉備津彦命を祭り、戦前までは官幣中社という社格でした。このお宮に奉仕した家は古来から幾多の変遷がありましたが、近世初頭、吉備津宮社家の内、藤井氏を名乗るものは30余家もあり、社家全体の過半数を占めていました。彼らは混同を避けるため、祖先の名を付して、藤井高安家、藤井末吉家、藤井正安家などと名乗っていました。しかし、幕府の忌諱に触れて追放されたり、逼塞してしまう家もあり、享保2年以後、藤井氏3家、堀家(ほりけ)氏2家、あわせて5家が幕府から社家頭として任命されました。藤井高利家(三日市)、藤井重安家(吉野)、藤井重末家(馬場)、堀家清政家(城ノ内)、堀家末政家(横箭)の5家がこれに相当し、各々5位に叙せられて、○○守を名乗っていました。

本居宣長の高弟として有名な国学者高尚は藤井高利家の出身です。

大中臣藤井宿禰高雄――高長――大藤太夫文時――久任・(五代不詳)・高延――高之――多門高家――+
                                               |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――左忠治高房――勘解由高寛――内記高政――+――左衛門太夫高友――長門高範――+
                 元禄12  |  元文5      天明1   |
                 室竹腰氏  |  室        室藤井氏  |
                       |                 |
                       +――津屋             |
                          原田家へ           |
                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――津南
|  中田重朝妻

+――内記高久  ――+――八五郎高治
|  文化4     |  天明4
|  室氏     |
|          +――比左
+――梶       |  安永8
|  堀家善政妻   |
|          +――冬
+――左忠治高寛   |
|  明和5     +――長門守高尚――+――但馬守高豊――+――忠之丞
|          |  天保11   |  文政8    |  文化12  
+――左馬之進貞政  |  室中西氏   |  室河野氏   |
|  堀家氏嗣    |         |         +==下総守高雅――+――紀一郎高紀――+
|          +――某      +――繁野        堀家氏    |         |
+――五兵衛宝              |  直老妻      文久3    |  室木梨氏   |
                     |            室高豊娘   |         |
                     +――萩野        室池上氏   +――卓      |
                        西山資政妻            |  大森家嗣   |
                                         |         |
                                         +――甲造     |
                                            三宅家嗣   |
                                                   |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――やすの
|  丸川傳四郎妻

+――津るよ
|  明治38

+――松枝
|  野崎平九郎妻

+――春雄
   大正1

藤井高利家は藤井高安家の分家になりますが、高安家が追放、絶家となったために、高安家との関係を記した系譜とともに、久任から高延に至る系図も失われてしまったそうです。

高豊は文政8年に35才で死去し、娘松野が残されたので、高尚は堀家式部徳政の次男光治郎を養子として、松野と夫婦にしています。松野は27才で死去していますので、高枝は浅尾藩蒔田家家臣池上五郎兵衛宗昌の娘若枝を後妻に迎えています。光治郎の母は、足守藩士佐伯瀬左衛門の娘ですから、緒方洪庵は光治郎の叔父になります。光治郎はのちに高枝、晩年には大藤高雅(幽叟)と名乗り、神職を子の高紀に譲って京、大坂で尊皇攘夷運動に加わりましたが、その最期は、京都の宿舎にいるところを浪士に襲われ三条大橋にさらし首になるという悲劇でした。

高紀は明治9年、備後国鞆津(福山市鞆町)沼名前神社神官に転勤しますが、14から5年頃失踪しています。高紀の弟卓と甲造は、それぞれ大森、三宅家を嗣いでいます。高紀には1男3女がありましたが、娘はいずれも他家に嫁ぎ、妻子のない嫡男春雄が大正元年34歳で死亡、藤井高利家は絶えました。


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