松井家
浅口郡西阿知村
倉敷市西阿知の浄土宗極楽寺は、知恩院末、文明三年梵蓮社宝譽上人の開基です。一時衰退して、天正十三年春に美濃から来た策傳上人によって再興されました。
天正年間、松井氏の祖與四郎国平が剃髪して浄佐居士と称し、家督を嗣子の則永に譲り隠居して寺内に草庵を結んで念仏三昧に入り、慶長五年十二月十日に入寂しました。
本堂の横に松井国平夫婦の墓碑と八世孫、孫兵衛盈永と彦四郎則蒼が一緒に建てた記念碑(上写真中央)が祀られています。
度重なる水害のため、寛政六年に瑞譽上人の代に避水台を築いて寺門、本堂などを改設しましたので、国平夫婦の墓碑も境内墓地より一メートル余高い所にあります。同じ避水台上に、岡家、丸川家の先祖墓が並べられています。
丸川、岡両家の先祖の中には清水家の過去帳に記録されている人が何人かいますので、極楽寺墓地には何度も脚を運びました。
丸川家は松陰が新見藩の儒官となって出仕し、その子孫は新見に移住しました。現在、寺とはほぼ絶縁状態にあります。岡家の子孫は遠く仙台に居られます。それに比べて松井家の子孫は近くにお住いなのか、お墓は立派な塀に囲まれていつもお祀りが絶えない様子が伝わっていました。
T様が梶谷家の縁戚関係についてお話された時、M氏の名前が出ました。即ち、
「梶谷昇次氏の妻の実家が西阿知の松井家で、そこはMとも親戚になる」
というものでした。
極楽寺に立ち寄った時、そのような縁合を記した墓碑がないだろうかと思って、初めて塀に囲まれた松井家墓地の中に踏み込みました。丸川、岡両家と同様に古い墓碑があることは判りましたが、M、梶谷などという家名を刻まれた墓碑は見あたらず、結局そのままになっていました。
それから、F様(真安P様と従姉妹)と諸家の縁合や系図について情報交換させていただいたとき、岡山市下中野の本郷家と松井家の縁を知りました。本郷家は間野君子の父兵三郎恒明の実家になりますので、松井家墓地を再調査したいと思いました。
墓碑を一つずつ丁寧に読んで記録して行くと、意外な関係があることが判って驚きました。
与四郎國平==彦四郎則永――某――+――・・ 慶長5 | 室 | 分家 +――惣兵衛則正――孫兵衛則盈――彦左衛門――+――彦右衛門保高――+ 延宝1 享保18 安永5 | 寛政8 | 室阿部氏 室三宅氏 室横溝氏 | 室 | | | +――孫重郎茂則 | 分家 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 分家 +――孫兵衛盈永――+――彦左衛門則明――+==牧太則年 | 文政7 | 元治2 | 渡邉氏 | 室原氏 | 室塚村氏 | 明治26 | | 室村上氏 | 室則明長女 +――女 | | 松井房信妻 +==陽介幸實 +――彦四郎則哲――+――加祢 | 安延氏 | 明治19 | 松井琢之妻 | 天保15 | 室平井氏 | | 室盈永娘 | +――志務 | | 分家 | 平井祉人妻 +――寿賀 +――則忱 | | 渡邉禮祐妻 +――伯太郎則祐――+――棣 ――+ | | 昭和5 | 昭和20 | +――良助 ――良平 | 室吉田氏 | 室大塚氏 | 明治2 明治25 | | 室神沢氏 | 室 +――並 | | | +――以子 | | | 土屋宣夫妻 | +――栗次則遒 | | 明治19 +――采音 | | 能勢敏夫妻 | | | +――倍代 | | 米田實妻 | | | +――稷士 | | 河原家嗣 | | | +――明子 | | 明治41 | | | +――繹吾 | | 昭和5 | | | +――成四郎 | | 室吉田氏 | | 室岡本氏 | | | +――女 | | 梶谷f次妻 | | | +――慶智 | 本郷家嗣 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――啓 | 昭和44 | 室西村氏 | +――圭四郎 | 昭和20 | +――稠與 | 橋本基男妻 | +――基子 | 昭和22 | +――*行(トシユキ) | 室好本氏 | +――瓊代 三宅氏妻
* =
国平夫婦の墓碑中央の祈念碑に下記のような銘があります。
○徳水院流譽快蓮浄佐居士
智江院澄譽月汲妙貞大姉
諱國平称与四郎赤松氏也住河州譽田村至居移備中西阿知村改称松井氏實永禄五年也
慶長五年十二月十日歿(天正年間剃髪)
妻妙貞後居士人卒後放十月六日無子居士姪名則永称彦四郎留在譽田命来嗣家自・八代毎年七月十日・・・夫妻 文政五年重立石 以二百二十三年 備後菅晋師撰 八世孫 孫兵衛盈永 彦四郎則蒼
与四郎國平は赤松円心則村の子孫で、置塩城(別名小塩城)の四代目城主上総介赤松義祐の次男、もとは孫次郎教房と名乗っていました。
天文年間に兄の彦兵衛範房(=則房?)と共に播州佐用荘を去り、帰農して河州譽田村に住んでいました。
その後、教房は永禄五年に河内国譽田村から備中国西阿知村に移住して松井と改姓しました。河内国譽田村というのは現在の大阪府羽曳野市誉田にあたります。円心則村の出身地、播州佐用荘に赤松谷出井分という所があり、その地名から二文字を抜き出して改姓したそうです。義祐の宿敵であった備前の浦上宗景家臣の宇喜多直家や金川の松田氏などが近国にいたために氏名を変えることとなりました。
國平夫妻に子はなく、兄彦兵衛範房の子彦四郎則永が譽田村から出て来てあとを継ぎました(以下略)。備後の菅晋師(茶山)の撰文です。
塀に囲まれた墓地に、
「廣譽**静音居士 文政七年五十八才 孫兵衛盈永」
という墓碑があり、さらに、
「清譽**道夏信士 延宝元年 則正 松井惣兵衛 為浄佐居士曾孫娶本村阿部権兵衛妹既而分産・居・即吾家始祖也延宝元年五月洪水陥天夫婦倶疾湿而歿 天保六年六世孫則明謹誌」
とあります。惣兵衛則正は浄佐居士の曾孫になり、本村阿部権兵衛妹を妻にして分家、これが松井家の始まり、則正夫婦は延宝元年五月十五日の洪水で共に水死しました。
即ち、惣兵衛則正は分家初代で、与四郎國平の直系は別にあるのです。これらが墓地一番奥に並んでいる
○**圓西信士 貞享三年 松井彦左衛門
○**寿清信尼 貞享三年
○**宗説信士 元禄十二年 松井茂・・
○**妙感信尼 正徳元年
○**光玉露清法子 寛保二年 赤松理兵衛則正
**妙抱信女 享保十一年
○**立浄信士 享保十九年 赤松彦三郎
○**生蓮法尼 享保二十一年 二十四才
などの墓碑に相当すると思われ、宗家は享保の末頃に絶えたのでしょう。彦四郎則蒼は玉島譽田屋・松井家の当主で、何代か前に西阿知から分家しています。文政五年当時、既に宗家は絶えていましたが、分家して西阿知と玉島で栄えていた子孫二人が一緒になって先祖浄佐居士をお祀りしています。
本村阿部権兵衛とは遍照院墓地の東端に墓地を所有している阿部家の先祖だろうと思います。阿部家が二軒あって、お互いに本家分家のようですが、一軒は熊野神社(遍照院に隣接)の神主をしています。ここは河原N君の家と縁戚になるそうですが、河原君の家も河原Y氏と同族と聞いています。
孫兵衛則盈の妻は茂浦三宅宗十郎娘、彦左衛門の妻は柳井原横溝万右衛門娘です。柳井原の横溝家はやはり庄屋を勤めた家だろうと思います。
孫兵衛盈永の妻は倉敷市中島の原左一郎正豊の長女です。原正豊の母は同村白神平助久長の娘で、倉敷村の灘屋原左兵衛に嫁いで一男一女をもうけますが、夫がはやく亡くなって二子を連れて実家に戻りました。つまり、原左兵衛の遺児が、原姓のまま白神家の分家を立てていますので、後に白神と改姓しています。
彦左衛門(常平)則明は盈永の嫡子で、妻は塚村魯介の長女郁、三男二女を生みましたが、弘化三年に三十三才という若さで死去、備中阿賀郡唐松村村上佳一郎次女理加を後妻に迎えますが、この後妻には子がありませんでした。
備中村鑑に
「○松平内蔵頭様 御城下備前岡山
千百三十七石四斗九合 浅口郡西阿知村 松井彦左衛門」
とありますが、これが則明です。
則明長女は従兄則寿を養子に迎えて分産、三男則哲が家を嗣ぎました。五男則忱も分家しています。
彦四郎則哲妻は西江原村平井八郎左衛門の長女輝、二男四女を生んでいます。嫡男祐が家を嗣ぎ、三女並が嫁、二男遒分産と墓誌にあります。
伯太郎の戒名が「則祐**居士」とありますので、則哲嫡男祐=伯太郎則祐と理解しました。
棣は伯太郎長男、先妻萬亀江は川上郡吹屋村大塚金庫次女で一男啓を生んでいます。後妻光子は姫路市木場製塩業神沢松次郎三女で、二男三女を生んでいます。
啓(ひろし)は歯科医で、西阿知町史(昭和二十九年)に
「備前領西阿知村庄屋松井彦左衛門の子孫、西阿知にその家現存、上道郡幡多村藤原現住」
とあります。妻房子は鹿児島市泉町西村森蔵長女です。
孫重郎茂則から後は塀で囲まれた宗家の墓地前に寄せられています。それぞれの墓碑間が十センチほどずつ空けてありますので、碑文はすべて把握出来ました。
孫重郎茂則==辨太郎房信==某 ――+――祖平 ――総治 ――規矩夫 ――保郎 明和5 大塚氏 | 明治14 大正5 昭和16 昭和57 室堀井氏 文政3 | 室廣兼氏 室廣兼氏 室川手氏 室 室松井氏 室房信娘 | +――三女
孫重郎茂則が彦右衛門保高の兄弟で分家したということは、本家の墓にも書いてありませんが、二代目辨太郎房信(児島郡浦田大塚盛庸三男)妻が「松井保高女」となっていて、年代的にも合致しますので、姪を養女として婿養子を迎えたことが判ります。それから
「松井房信女志賀嗣父家生一男三女 天保七年 四十才」
という墓碑があり、夫(婿養子)は戒名のみ記されています。
茂則の妻堀井氏は亀島新田合庄屋堀井家の人でしょうか。
祖平は西阿知村保長を勤めています。妻竹野は川上郡中野村廣兼仁右衛門次女です。
総治は祖平の次男で、妻絹は川上郡吹屋町廣兼才三郎長女です。
規矩夫は総治の三男で、妻ミツ子は金光町川手深太長女です。
宗家の家紋は「丸なし左三巴」ですが、この分家の累代墓には「丸に五三桐」の紋が入れてあります。
本家墓地に接して南に
「*譽**覚翁居士 牧太則年 明治二十六年歿年七十二」
といくつかの墓碑があり、則年は本家彦左衛門則明の墓誌にある則寿と同一人物と思われます(寿=年)。この人は備中早嶋渡邉禮祐の長男で、本家松井彦左衛門の養子となり、その長女直を妻として後に分家して別に一家を立てたとあります。横に早嶋渡邉禮祐夫婦の墓碑があるので、則明の墓誌と合わせれば、禮祐妻寿賀(萬延元年歿)が孫兵衛盈永の娘であると判ります。つまり、牧太則年夫妻はいとこ同士になります。
成四郎がこの後の祭祀を引き継いだのか、妻致可子の墓碑が建てられています。致可子は浅口郡船穂町吉田寿一郎長女で、二男二女を生んでいます。
則枕から後は東新宅と云われます。
有造則枕――+==貞子 大正8 | 吉田氏 室浦上氏 | 大正5 | +==克己 ――勝臣 昭和20 昭和48 室
有造則枕は彦左衛門則明の次男で神戸へ出ています。妻粂子は岡山市児島町の浦上善七郎長女、丸亀市吉田勝治郎長女貞子を養女にしたとあるのですが、その後どのようにつながるのかよく判りません。昭和四十七年に克巳が建てた累代墓に大正十二年に五十六才で死去した琢之が祀られていますが、この人は河内村(明治三十五年に甲内村と西阿知村合併)書記を務めていたことが西阿知町史から判りました。
境内墓地には他にも孫重郎茂則家の西に同族と思われる墓地があります。
目に止まったのは、
「**清操信士 諱季邉字佐一郎後改百々介姓原氏中島村人娶玉島松井彦四郎則蒼妹生三男而皆早世不得養老文政十年托身於外姪松井良介天保六年疾歿寿七十四
**妙通信女 弘化三年十一月二十五日」
の夫婦墓で、これと同じ墓碑が中島の白神(原)家墓地にあります。
「**清操居士 佐一郎百之助原左一郎正豊長子有故別居後受松井良助之依託至其家整理家政矣天保六年歿年七十四於松井家
**妙道大姉 室玉嶋譽田屋松井彦四郎則蒼妹弘化三年歿」
つまり、原佐一郎(百之助)は原左一郎正豊の長男でしたが、家を嗣がず、外姪松井良助の求めによってその家に入り家政を執っていました。妻は玉島譽田屋松井彦四郎則蒼妹で、夫婦には三男がありましたが皆早世して老後の世話をする人が居ませんでしたので、外姪の世話になったようです。
陽助幸實 ――+――小松 天保15 | 江木秀桂妻 室盈永嫡女 | +――伊志 | 天保14 | +――津奈 嘉永5
陽助幸實は備後国尾道の安延氏で、盈永嫡女京の婿養子となって分家しています。
「**妙散大姉 天保八年 陽介娘小松 二十二才 矢掛村江木秀桂妻」
という墓碑があり、これは矢掛町東三成の江木(赤松)家墓地にある
「**妙散大姉 秀桂室小松 西阿知村松井陽介娘天保八年」
と一致します。
良助、良平はそれぞれの生存年代と原百之助との続柄から、本家の系図に入れてみました。
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