太田家
賀陽郡西花尻村





太田家は平家の武将妹尾太郎兼康の一族、備前一宮の社人難波次郎経遠の子孫だそうです。もとの姓は難波(なんば)と云います。但し、妹尾兼康の出目については異論もあり、また、一宮の社家についても諸説あります。

源平合戦から江戸時代に至るまでの系譜はわかりませんが、生坂清水家に残る、生石家の系譜を記した古文書に、この家の先祖と思われる太田助内という人の名が見られます。おそらく、鎌倉、室町時代を通じて、この地方の豪族として暮らしていたものと思います。

宗玄――助内勝直――+――兵助
元禄4 延享1   |
          +==善左衛門――助内――+――養助――――+==元右衛門――+
          |  室勝直娘  寛政3 |  文化13  |  吉田氏   |
          |            |        |  室養助娘  |
          +――女 岡山秋田家へ嫁 +――女     |        |
          |               梶谷雅美妻 +――辨蔵    |
          +――女 福武佐五二妻                    |
                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――助内本久――助内直温==某   ==務  ――+――克   ――T
   室長瀬氏  室梶谷氏  和気氏   室家女  |  室福島
               室直温娘       |
                          +――某   ――男

勝直は墨龍翁窮神と号し、書の大家です。京の町を歩いている時、路傍に立てられた制札の誤りを指摘したのが役所の目に止まり尋問をうけましたが、勝直の説明が条理整然としているし、その人柄が気に入られて、赦されて祐筆にまで採用されたと伝えられています。勝直の書はこの地方にいくらか残っているようです。享保7(1722)年、74歳の時に自分の墓碑を建て、延享1年に96歳という高齢で死去しています。藩主板倉公との間に行き違いがあり、花尻に居られなくなって上京する前に自ら墓碑を建てたということだそうです。

勝直の子孫に直温という、また、たいへんな書家が出ています。直温の妻は窪屋郡中洲村酒津の梶谷伊平次正次の4女になり、直温が梶谷家に送った手紙が岡山大学附属図書館所蔵梶谷家文庫に多数遺っています。直温夫婦には1人娘しかいませんでしたので、これに御野郡米倉村の和気家から養子を迎えてあとを嗣がせましたが、のちにその養子婿が実家を相続するために戻ってしまったので、残された娘と孫娘のこと、跡継ぎのことに頭を悩ませていたようです。孫娘には浅口郡西阿知村の守屋家から務という婿養子を迎えています。

幕末から維新の時代変動は、幕藩体制を下から支えてきた村役人層(庄屋、大庄屋など)の家を潰して行きました。太田家の場合も同じで、直温の晩年から資産は傾き、務は借財の返済のために家屋敷を手放して岡山に出ています。いろんな苦労もあったようですが、生来の器用さから写真技術を習得し、のちに、西中山下に「太田楽水軒」という写真館を開いています。かなり有名な写真館だったそうですが、子の克が医学を修めて姫路で耳鼻咽喉科を開業したので、務の晩年になって家業を他人に譲って一家揃って姫路に移住しています。克が医者になったのは、務の実父が守屋庸庵という、幕末の岡山地方に親戚の緒方洪庵と共に種痘をひろめた有名な医師であったからだと思います。旧制岡山一中、六高、岡山医科大学と進んで、姫路で開業の後、応召され、昭和20年7月にフィリピンで戦歿、姫路の居宅も戦災に見舞われて焼け出されています。この時に、代々受け継いだ家系図をはじめとする文書が焼失したそうです。墓碑と分家に遺された少数の文書によって、上記のような系図を書いてみましたが、間違いもあるかも知れません。

分家の系譜は次のようになります。

辨蔵――喜平太――鶴蔵――元蔵――龍太
文政5 安政5  大正5

太田家は代々西花尻村の庄屋を勤めていたので、十二箇郷用水関係の文書などにも「西花尻村名主、助内」という署名がたくさん確認できます。一方、家伝の突き目の薬を製造して、近郷の人に分けていたようです。突き目というのは、今で云う角膜潰瘍のことで、田に入って作業中に稲の葉で黒目を突き、そこに黴菌がついて化膿したものです。太田家の家伝薬のもとになる薬液を搾り取る葉は、西花尻正法寺(日蓮宗)の前の旧太田家屋敷跡の石垣の間にたくさん生えています。どこにでもありそうな草ですが、そのつもりで捜してみると意外に見つかりません。


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