太田家
都宇郡早島村





平成三年七月二十三日、倉敷市玉島の岡本屋太田家の調査に行き詰まりを感じ、とうとう玉島中の全寺院宛に手元にある戒名と歿年月日を記した問い合わせの手紙(往復はがき)を送りました。

そのうちの一つのお寺のご住職が近くの太田T様に私が書いた手紙を託され、T様から、寺裏山にある秩父観音霊場の磨崖仏の横に太田恒三郎、同直七郎利久母の名が彫られていることをお知らせいただきました。八月のおわり、手紙をお送りしてからほぼ一月後のことでした。さっそく脚を運んでみると、寺境内にも太田惣七郎重昌母玉海明鏡という碑があるも判りましたが、手元にある岡本屋から差し出されたと思われる手紙にある恒三郎という署名の主と一致するかどうか、はっきりした決め手は得られませんでした。
T様は私の調査目的をよくご理解して下さり、手がかりとしていくつかの家を紹介されました。そのうちの一つが都窪郡早島町宮崎にある鶴崎神社の神官をつとめていた三軒の太田家でした。

当時すでに岡山市三手の渡邉家調査がかなり進んでいましたので、渡邉家先祖の二人(姉妹)が早島太田家から嫁いだ人であることは頭にあり、T様からの紹介はまさに「鶴崎神社へ行きなさい!」という天の声のようなものでした。
こんな書き方をすると、宗教じみて自分でもイヤになりますが、ある時々での調査のひらめき(ヒント)と実際の調査結果が何かストーリーに書かれているかのように次々に展開したり、不案内の場所でまるで招かれるかのように気にかかっている墓に辿り着くことがあるので不思議です。

九月になって鶴崎神社を訪ねました。西、中、東、三軒の太田家の解説をしていただき、絶えた西太田を除く二軒の太田家ご子孫を紹介していただきました。中太田家は墓地の場所も教えて頂きましたので、すぐその脚で国鉾神社裏の墓地と邸址も確認に行きました。墓地は約1メートル余高の土塀で囲まれ、門の木戸に施錠されて中までは入ることが出来ません。ただ、塀越しに覗いた範囲では、岡本屋太田家の調査の参考になりそうな情報は見あたりませんでした。渡邉家先祖の二人(姉妹)の父は、丹右衛門直乗であることを控えていましたので、中太田の墓碑に彫られた諱が「直」の文字で統一されていることがとても気になりました。しかし「直乗」の文字は確認できませんでした。ご子孫にも問い合わせてみましたが、古い書き物は未整理のままで、申し訳ないがよく判らないとのことで調査が頓挫してしまいました。

翌年の春、岡本屋については和算研究家Y氏から有力情報を戴いてほぼ解明できましたので、早島の太田家調査は次第次第に後回し、頭の隅に追いやられて行きました。
その後、清水家に入った各代配偶者の縁戚まで調査を拡げてゆきましたが、系図まで入手できた三手の渡邉家につながる家があまりにも不明点が多いのを残念に思い、平成十三年暮になって再び早島の太田家を調べることにしました。

諱に「直」の字を伝える鶴崎神社神主家は中太田家しかありませんから、改めて早島町史に掲載された鶴崎神社宮司中太田家系譜を熟読しました。
「太田直正 元禄十四年九月十日より享保九年八月一日迄奉仕」
直乗(チョクジョウ)=直正(チョクジョウ)と音が一致するようで、太田直正は太田丹右衛門直乗と同一人物ではないかと思われますが、崎や中の親とするとやや年がずれているようです。その次に出ている
「太田直経 延享元年三月廿三日生 享保九年八月二日より宝暦十三年五月三日まで奉仕」
をみると、生まれ年が奉仕を始めた享保九年よりも後になっていて早島町史に掲載された系譜自体があやしいことに気づきました。

そこで、再度中太田家の墓地を訪ねました、施錠がしてあって入ってみることができませんので、あらかじめ用意した双眼鏡を使って塀越しに全ての墓碑文のチェックを試みました。

そうすると、渡邉是富妻崎の墓碑が見つかり「あっ!」と驚きました。渡邉家へ嫁いだ姉妹(崎、中)の実家は中太田に間違いなかったのです。
木枯らしが吹き付けて頬も指先も凍えそうでしたが、頭の中は熱く燃えていました(^_^ ;

双眼鏡は遠方の墓を捜すときに便利なことは誰でも理解できますが、塀越しに碑文を読むにもたいへん有力な武器になるので、常時携帯した方が良い小道具です。
帰宅するとさっそくご子孫に連絡して事情を説明し、木戸を開けて中に入らせていただくようにお願いしました。
中に入って全ての墓碑を調べると、崎の墓碑から三つばかり横に、「前潟住太田直乗墓」と裏面に深く彫られた墓を発見しました。この墓は塀に沿って並べられていますので、とても高いところから覗き込んで文字を確認することは出来なかったのです。
デジタルカメラを狭い空間に差し込んで向きを適当に調整してシャッターを押して確認しました。双眼鏡といいデジカメといいい、使い方次第で役に立つという例でしょうか。

中太田家は神官ですから戒名がありません、直乗の夫婦墓には戒名があります。崎と中の実家は中太田の分家だったようです。
中太田家のお墓を調べて下記のような系図にまとめてみました。
直秀までは新しい石版にまとめてあるので、それをそのまま拝借しました。江戸時代よりも前のお墓にはほぼ全例、銘など彫られていません。日本史の教科書に出てくるような人でさえそうですから、一般庶民は墓石のかけらさえ見つかることはありません。

三郎左衛門――富左衛門――判官全職――兵衛必全直――三之進直全――直重 ――直吉 ――直光 ――直武 ――直秀  ――+
       元弘2   建武3   延元1    延文5    嘉慶1  応永3  応仁2  延徳2  永正14  |
                                                           |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――直経  ――直安 ――直勝 ――直忠 ――直定 ――直房 ――直次 ――直忠  ――直秀 ――右衛門直之――――+
   天文20  天正3  文禄3  慶長3  寛永3  正保2  慶安4  寛文11  貞享1  元禄14     |
                                                           |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――直正 ――美濃守直経――兵庫直恵――要人直國――直養父 ――三河直貫――健直康
   享保9  宝暦13   天明2   天保10  明治9   明治44  大正11
   室    室      室     室井上氏  室真野氏  室中尾氏  室藤井氏
                                       室大月氏

早島町には不老の道という歴史散歩コースがつくられています。このコース中に目通3.5m、高さ16m、樹齢約650年のカヤの木が含まれています。この木は中太田家邸内にあり、直養父が笛の名手でその音色を鳳鳴と称せられたことから、地元では「鳳鳴カヤ」の名で人々に親しまれています。
直養父の妻は増原村真野保之丞長女とあり、仲田太治助親孝妻の実家と同じようです。
直貫の妻は賀陽郡吉村中尾翁左衛門娘、この中尾氏は坂野家の親戚でもありますが、ある家の系図で中尾氏の名を拾い上げたのがきっかけでとうとう中尾家のお墓を訪ねることになりました。こうして、中太田家ご子孫が「新庄の間野家と関係があります」とお話された意味がほぼ理解できることになりました。

崎と中の実家になる分家は下記のようになると思います。

丹右衛門直乗――+――直忠   ――直道  ――
天明9     |  文化3    天保14
室       |
        +――崎
        |  渡邉是富妻
        |
        +――中
           渡邉是富妻

直乗は直経ときょうだい関係くらいかと想像しています。


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