中尾家賀陽郡吉村

中尾家
賀陽郡吉村





大崎石原家の系図に「生石中務治家=中尾三郎左衛門」と書いてあるのを見つけ、吉備郡誌に紹介された大森と改姓した中務治家の後裔の他に、中尾と改姓した後裔が居るのではないか、そこには清水家の過去帳にある生石玄柳という人の墓碑もあるかも知れないと想像を巡らし、大崎石原家の系図にある中尾家を捜してみようと思いました。とにかく、吉備郡誌掲載の生石家系図に中尾という姓が全く紹介されていないのは納得が行きませんでした。
大崎石原家の系図には、日近石原家との縁戚関係にもついてふれてあります。日近石原家の過去帳に、「弥次兵衛娘 中尾武兵衛妻宝暦元年十一月廿四日心月妙観信女」というものがありますので、大崎石原家系図の「中尾三郎左衛門」の中尾家と中尾武兵衛の家は同じか、同じ株家関係ではなかろうかと考えました。
大崎、日近の近辺で中尾という家がないかどうか、吉備郡誌を捜してみました。そうすると、

吉備郡誌によれば、日近村 吉(足守領・後幕府領)
正徳中 次郎右衛門(足守領)
安政中 小倉治左衛門(幕府領)
    中尾瀬助(幕府領)
    中尾由喜衛  上庄屋
    小倉元右衛門 下庄屋

という記録がみつかりました。そこで、電話帳ソフトで岡山市吉(よし)の中尾姓を捜しましたが見つかりません。「庄屋まで勤めた家が無くなっている!」と知ると、私の探求心が大いに刺激されました。
多くの家の歴史を調べて久しいのですが、かつて隆盛であったにもかかわらず、いまは絶家して誰にも注意されないような家を発掘して紹介することにどうしても熱が入ってしまいます。
これまでに整理しているデータから「中尾」をキーワードに検索をかけてみました。現在、全データはホームページと同じhtmlにして保存しています。はじめは「花子」で系図を書き、そこに出来るだけの墓地調査結果を盛り込もうとしましたが、限界がありますし検索機能はありません。既成の家系図ソフトをいくつか試していますが、自分のわがままな希望を叶えてくれるソフトはいまのところ見あたりません。日本語入力の出来る家系図ソフトはいくつか発表されていますが、集めたデータを纏めるにはほぼ満足できるようですが、更なる調査に発展させようとそのデータを利用するには未だ充分ではないように思います。htmlというテキスト文だと、秀丸エディタのgrep機能を使ってファイル横断検索をかけることができます。こうして拾った「中尾」に関連したデータは次のようなものでした。

弥次兵衛娘 中尾武兵衛妻
福谷板野彌治郎智笏妻 賀陽郡吉村中尾瀬助娘
岡山市東菅野坂野右介正愛室 日近村大字吉村中尾翁左衛門娘
都窪郡早島町太田源直貫室 中尾氏婦美考諱翁左衛門賀陽郡吉村之産

現在、手元にあるデータはかなりになりますので、grep検索だけでも実地調査に歩くことに引けを取らないほどの緊張感を味わうことも出来ます。家と家との思わぬつながりが見つかってこれが調査に歩くきっかけになることもあります。

私のような調査を展開している人は別にして、現在一般に使用に耐えられる日本語入力の出来る家系図ソフトは瀬座氏作成の「家族の記録2 v2.4」、「Personal Ancestral File (PAF) 」、土屋氏作成の「家系図ソフト」などがあります。

住宅地図も確認しないまま吉を訪ねてみました。最近、時々こういう訪問をしはじめました。住宅地図で念入りに姓の分布、それらしい墓地の位置など絞り込んで作戦を練るのも楽しいのですが、白紙に近い状態で訪ねて、地元の人と話をしながら調査対象に近づくというのもまた違った楽しみがあります。日常、接しているおじさんおばさんとは違った田舎の人の顔、生活の一部を垣間見る事が出来るのも嬉しいことです。
吉の中心集落であろうと思う辺りに車を停めて、道を行くおばさんに尋ねましたが、ナカオという姓はまったくご存知ありません。ただ、この付近が吉村と云われた頃の中心集落ですかという問いには、そうですという確かな答えが返ってきました。自分の勘はそんなにくるっていないと思うと希望が持てました。道路地図にはバス停表示や学校、公民館、郵便局くらいの表示があります。江戸時代に村であった所の中心集落はこれらを目安にほぼ判ります。庄屋の敷地跡にこういう施設が建てられていることが多いのです。
ところで、電話帳で中尾姓を拾い出した時、吉の隣下高田には何軒もの中尾家があること、またその下高田集落と吉を結ぶ山越えの道があることに気づいていました。おばさんと話をしながら東南の山の方に目をやると山に入る道があります。それを手元に辿ると真下の道につながるように思いました。「この道は下高田へ行きませんか?」「そうです、自動車もちゃんと通ります」、ああ、やはりこの付近に間違いない、中尾庄屋の跡地があるはずだと確信しました。
おばさんにお礼を言って、車に戻ろうと歩き出したところで、先ほどのおばさんと同年配位のおじさんに会いました。挨拶を交わすついでにダメ元と思って尋ねてみました。その人は昭和十年くらいの生まれでした。「この上に公民館跡があって、自分が子供の頃、その隣にナカオのおばあさんが一人住んでいました。横に中尾池と呼ばれた池があったのでこの付近の子供はおばあさんにことわりをして水浴びしていました。その後いつの頃でしたか、おばあさんの家が火事になって、この奥の溝手さん宅に引き取られました。親戚だったのでしょう。中尾おばあさんの跡地にはいまMさんが家を建てて住んでいます。石垣に太陽と月が入っているので、時々見に来られる人がいます」
江戸時代の山間部に住む豪農は時に自力でため池を掘り潅漑用水を確保していました。中尾池=中尾庄屋の私有池に違いありません。さっそく上ってM家を訪ねました。ご主人が石垣の太陽と月を教えて下さり、墓地にも案内していただきました。石垣には安政二年六月の銘も入っていましたが、月の本体は脱落しています。
墓地は蜘蛛の巣と蔦性の植物に覆われてひどい状態でしたが、何とか中尾翁左衛門 福谷板野氏 寛延・年の墓碑など確認して、写真だけ撮って退散しました。
後日、装備を整えて改めて調査に向かいました。その結果、判ったことを下記のような系図にまとめました。

某  ――武兵衛足美――瀬助美郷――+――宗次郎庸郷――翁左衛門庸義――+――由喜衛庸治――廣造
寛保元  宝暦10   文化1   |  天保12   安政5     |  明治41   明治6
室    室石原氏   室友野氏  |  室小坂氏   室間野氏    |  室三宅氏   室板野氏
                  |         室       |
                  +――女              +――竹子
                     板野智笏妻          |  坂野正愛妻
                                    |
                                    +――婦美
                                       太田直貫妻

二代目の武兵衛とその妻は日近石原家の過去帳ときれいに一致しました。ただ、武兵衛妻が石原家の記録で心月妙観信女となっているのに、墓碑には心月院止光妙観大姉とあります。どうやらこの二代くらいの間に家が急激に隆盛になったようです。
三代目の妻は山手村友野氏とあるので、岡谷の友野一族でしょう。四代の妻は作州上神目村小坂利助長女、これは苫田郡鏡野町寺和田の小坂氏と同族になると思います。
六代の妻は岡田藩士族三宅副右衛門娘とあり、やはり射越屋の一族になるかも知れません。
三代の娘と七代の妻は共に下道郡福谷村(現総社市)板野氏となっています。
五代の妻が新庄の間野氏、その娘が早島の太田家に嫁いでいます。太田家のご子孫からお聞きした「新庄の間野家と親戚」という意味が理解できました。
最後の女性が「中尾池」の主のおばあさんです。

吉の溝手姓を電話帳ソフトで検索すると、意外にも多数が挙がって驚きました。
早島の溝手家の系図筆頭に出ている弥左衛門吉房の妻が賀陽郡溝手村(現総社市)の人とあり、溝手家は溝手村から出たと云われます。しかし、現在の総社市溝手地区には溝手姓がありません。吉に溝手姓の集積を発見して、どうやら早島の溝手家ルーツが賀陽郡吉村にあるのではないかと思うようになりました。吉浜屋、吉屋、吉川屋など、吉の文字をよく屋号に使っているのもその証拠かも知れません。

いちばん古い墓は「一山智空信士」という自然石です。妻の名と共に俗名は判りません。これが吉村中尾家の初代と考えられますが、「生石中務治家=中尾三郎左衛門」が先祖だとすれば、更に数代さかのぼらなければいけません。
そこで、旧中尾邸の真下から山を越えた下高田へと脚をのばしてみました。

下高田の中尾姓の家一緒に祀っている祠は吉へ上がる道の入り口にあり、その直ぐ上に中尾氏の旧邸があったと云われ、そこに古い無縁墓が竹林からのぞく筍のように並んでいます。これらが吉村へ移住した中尾家の先祖墓なのかも知れません。




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