大塚家
児島郡槌ヶ原村


岡山県立天城高校の前身になる天城中学を創立した大塚香の伝記に掲載されている系図には、三河国加茂郡大塚村(愛知県)に住んで織田信長に仕えていた国富四郎兵衛重照という人から記しています。重照は本願寺攻めの時に討死し、長男重利は備前国児島郡大崎村にやってきて名を大塚と改めました。重照の弟文左衛門光忠は徳川家に仕え、その子孫大塚政右衛門という人が江戸本所に住んでいるそうです。。

文右衛門森忠――三郎兵衛吉澄――+――太郎右衛門勝源――権兵衛勝成――+――恵兵衛忠勝――+――與兵衛源澄――+
寛永17            |  元禄11     享保14   |  安永8    |  文化2    |
        室       |  室        室      |  室大塚氏   |  室島村氏   |
                |                  |         |  室難波氏   |
                +――七右衛門重近          +――ハナ     |         |
                   八軒屋村移住             横田森興妻  +――己右衛門   |
                                             |  横田家嗣   |
                                             |         |
                                             +――八十二    |
                                                宝暦11   |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――専之丞喜徳
|  天保6
|  室岩津氏
|  
+――恵兵衛  ――弥四郎
|  天保9    明治20
|  室横田

+――民
   藤田維顕妻

文右衛門森忠は「寛永十七年十二月移住元主重吉後」と刻まれた供養塔で確認しました。その隣に籃塔があり、奥の壁に「大塚二代主三郎兵衛吉澄」と彫られています。
太郎右衛門勝源、権兵衛勝成の夫婦は墓地の登り口に並んでいます。その後の墓碑はブロック塀で囲まれた中にあります。

與兵衛源澄が大塚七代主、恵兵衛嫡とあり、父大塚恵兵衛母大塚弥兵衛娘雪女で大塚六代孫という童子墓(八十二)があります。また、対に並んでいる墓碑で、一方が「安永八年九月二日」 一方が「・兵衛忠勝妻雪女 母は先與兵衛女」と読めるものがあります。これらから以上のように並べてみました。勝成と恵兵衛忠勝の間に「一轉覚浄 宝暦二年十月十日」與兵衛?という人が入るのかも知れません。
源澄妻は「備府住島村新右衛門長季女」とあります。後妻孝は難波亦右衛門包保の娘で、三十才で嫁いできたと刻んでいます。

横田氏の二世本浄院(名方古字士好称己右衛門)は「實大塚恵兵衛謚了忠居士の仲子也」とあります。源澄との年齢差が二歳くらいになります。

「蓮室智貞信女」の墓誌には「大塚與兵衛源澄娘名民某妹岡山藤田半次郎維顕嫁 国富恵兵衛棲造立之」とありますが、藤田家の墓地には「維顕妻者児島郡槌ヶ原村国富與兵衛之娘也」とあり、源澄は国富姓も名乗っていたようです。

吉岡の内田重右衛門義兼妻が、「槌ヶ原村秀天大塚徳三郎娘天保五年八月六日九十一才自性貞淑禅定尼」とありますが、秀天は少し離れていて横田に近いので、横田氏を名乗った大塚分家かも知れません。また、八軒屋大塚家四代を嗣いだ後吉尹重(金光傳右衛門三男、文化十一年歿年七十八才)の妻大塚氏が「槌ヶ原嘉平治女文政十三年歿」とありますが、この嘉平治も秀天の一族かも知れません。



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